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黒椿翡章

 急に降ってきた雨から逃れるように、路地裏へ入り込んだのがいけなかったのか。いつの間にか迷ってしまい、入ってきた場所にも戻れなくなってしまった。
 屋敷町。古い武家屋敷の残る街並み。東西に近衛湖疎水の流れる、雨の似合う雅やかな街だ。
「おお、ありがたい」
 路地裏の先、少し開いた空間に一件の店が居を構えている。一見すると古い民家のようだが、よく見れば磨りガラスに屋号を記した紙が張り付いていた。夜行堂、とあるが、それだけではなんの店か分からない。
 軒先に吊るされた提灯が、仄かにあたりを照らし上げている。
 雨宿りには丁度いい。ビジネスにはならないだろうが、何かの縁にはなるだろうか。肩についた雨粒を払い、ハンカチで頭や顔を丁寧に拭いていく。
 ガラス戸に手をかけようとして、中から潜めるような囁き声が聞こえたような気がした。先客がいるのだろう。外観とは裏腹に、案外繁盛しているのかもしれない。
「ごめんください」
 がたつく引き戸に手をかけた瞬間、囁き声が止んだ。
 店内は薄暗く、陰鬱としていた。天井から吊るされた裸電球が周囲を照らしている。土間の上に棚が並び、そこに様々なものが陳列されている。いや、これはどう見ても散乱している、というべきか。
 古ぼけた鏡、着物の帯、狐の面、赤いリボン、長靴、真鍮の鍵、蓄音機、小刀、動物の根付。どれもこれも統一感というものがない。共通性があるとすれば、古い物であるということくらいか。
「骨董店か」
 しかし、おかしい。品物にはどれも値札がついておらず、管理されているという風にも見えない。私は専門外だが、ざっと見ただけでも価値のありそうなものは幾つかある。
「やぁ、いらっしゃい」
 奥から女性の声が響いた。落ち着いた、囁くような声音に振り返ると、そこにはすらりとした線の細い美女が現れた。鴉の濡羽色というような黒髪が美しかった。
「どうも。雨宿りに立ち寄らせて頂きました」
「構わないとも。好きなだけ暇をつぶしていけばいい」
「ありがとうございます。あなたがこちらの御店主で?」
「そうだよ。今は私が店主をしている」
「ご挨拶が遅れました。実は、わたし宝石商をしておりまして」
 名刺を手渡すと、彼女はにっこりを微笑んだ。
「ほう。宝石をあきなうのか」
「個人の宝石商ですから、それほど大したものではないのですが。現地で直接、この目で見て仕入れています。品質は保証しますよ」
「行商に来たのかい?」
「いえ、雨宿りのついでのようなものです。宝石にご興味はおありですか?」
「あるとも。昔からの大好物さ。酒と玉石があれば好きなだけ酔える」
 彼女はどこから取り出したのか、煙管を咥えて紫煙を細く吐く。吸い口はともかく、あの羅宇は翡翠で拵えてあるように見えた。案外、資産家なのかも知れない。
「ご覧になりますか?」
「ああ」
 これだから行商はやめられない。思わぬところに商機が転がっているものだ。
「御店主は運が良い。とびきりの逸品ばかりですよ」
 鞄から宝石箱を取り出し、手袋をつけて中身を取り出すと、女主人は目を輝かせた。それは年頃の女子が高級チョコレートを目の当たりにしたような反応に近い。そして、私の経験上、ここで物怖じしない客は確実に購入する。しかも高額商品を。
「そういえば今日はバレンタインデーですね。御店主もチョコをどなたかに?」
「私はそういう風習には親しんでいないし、贈りたいと思う者もいない」
「でしたら、ご自分へのご褒美に宝石をぜひ」
 巧みだな、と彼女は苦笑する。
「品物を広げたいのですが、そちらの帳場をお借りしても?」
「ああ、構わないよ」
 帳場にシルクの布を引いて、その上に一つずつ宝石を置いていく。
「まずは、こちらから」
「ほう。和闐石か」
 中国四大玉石の中でも最高と玉として名高い。白翡翠などという呼び名もあるように、乳白色で光沢のあるものが至高とされる。勿論、値段も張る。
「懐かしいな。あれは張騫が献上したのだったか」
「ん? 何か仰いましたか?」
「いや、なんでもないよ。素晴らしい逸品だ。他には?」
「こちらも希少な石です。ミャンマー産の『ピジョン・ブラット』と称される最高級のルビーです」
「美しい。これほど透明感のある紅玉は珍しい」
「お分かりになりますか」
「紅玉は血のように濃く、鮮やかなものが良い。舌の上で転がせば甘く、砕けば中の蜜がとろりと溶け出すんだ。若くて濁っているものは、渋いばかりだ」
 何かの喩えだろうか。曖昧に微笑んで、最後の品を取り出す。
「黒金剛、ブラックダイヤです。この発色はブラックブラウンと呼ばれるものです。どうです、バレンタインに相応しい逸品ですよ」
「ふふ、私もチョコレートなどより、よっぽど好みだ」
 そう満足げに呟いたかと思うと、彼女はブラックダイヤを指で摘み上げた。
 そうして、口に放り込むと、奥歯でパキンと噛み砕くような音がした。
 彼女が微笑み、どこかとろんとした熱を帯びた眼で私を見た。
「ああ、素晴らしい。これほどのものはそうそう口にできないよ。いや、ねっとりと甘く、芳しい。ローストしたような香ばしささえ感じる」
 んあ、と彼女が口を開くと、ルビーを同じように口へ放り込んだ。
 宝石を、食べている。
 目の前の光景が理解できず、硬直する。
 チカチカと頭上の白熱灯が震え上がるように明滅する。闇と光が交互に目に焼きつくようだ。
 彼女の足元から伸びる影、その頭部に一対の角が生えている。巨大で、禍々しい、捻れたような羊角。
「紅玉は実に私の好みだ。舌を灼くような甘味がたまらない」
 ほぅ、と細く息を吐くと、炎が火の粉となって口の端から溢れた。
 艶やかな首のうなじが、うっすらと汗をかいて光っている。彼女の目はますます、とろん、と憂いを帯びていき、楽しげに喉を鳴らして微笑う。
「君は、和氏の璧という名石を知っているかな」
「はい。これでも、宝石商の端くれですから」
 かつて古代中国の楚の国にいた和氏という人が霊山で玉石の原石を見つけ、国王に献上した。しかし、国王が鑑定をさせたところ、雑石だと述べたので、国王は怒って彼の左足を切り落とした。その次の王にも同じ石を献じたが、結果は同じで今度は右足を落とされた。また更に次の王である文王が即位したとき、和氏は石を抱いて泣き続けたので、文王はその理由を聞き、その石を試しに磨かせてみると、名玉を得たという。
「人の王というのは愚かだね。自ら確かめもせずに、それが偽玉だと怒るのだから。私なら、こうして食べてしまえば真贋は明らかになる。勿論、足だけで済ませたりはしないよ」
 紅潮した頬に手を添えて、彼女は愉快そうに笑っている。
 もうこれ以上は、恐ろしくていられない。彼女が正気を失ってしまったなら、宝石の次に食べられるのは私かも知れないのだから。
「あの、こちらの宝石は、全て差し上げます」
 震える声で、絞り出すよう告げると、彼女は楽しそうに首を横に振った。
「いや、きちんと対価は払うとも。さぁ、手を出して」
 私が彼女に自分の手を差し出すのに、どれほどの勇気が必要だったか、誰にもわからないだろう。
 彼女が右手をこちらへ伸ばすと、私の掌の中に金色の貨幣が音を立てて降り積もった。それは彼女の掌から無尽蔵に吐き出されているように見えた。
「ああ、久しぶりで加減がわからないな。これだけあれば足りるだろうか。指輪はやれないが、金貨なら好きなだけ持っていってくれていい。ただし、長居は無用だ。最後の一粒は、味わって食べたい」
 私は鞄の中へ、床にこぼれ落ちた金貨を必死に詰め込んだ。とても全てを入れることなどはできない。鞄の蓋をするのも忘れて、店の外へと飛び出した。
 背後で、彼女が「またのお越しを」と口にしていたような気がするが、とても振り返る気にはなれなかった。

 路地裏の狭い通路を、一体どのように通ったのか、まるで覚えていない。
 気がつくと、近衛湖疎水にある小さなベンチに腰をおろし、呆然と流れる水面を眺めていた。
 いつの間にか雨は上がっていて、雲の合間から白い光が射している。
 鞄の中に手を入れて、重い金貨を手に取ると、それらはどれも統一感のないものだった。一見して、時代も国もバラバラであることが見て取れた。形こそ不揃いだが、金であることは間違いない。
 あの骨董店の女主人は何者だったのだろうか。
 いや、深くは考えまい。
 考えたところで何になるというのか。
 空にかざした歪な金貨には、獅子と角のある牛が描かれている。
 随分と古い金貨だ。
 はっ、となって携帯電話で検索をかけてみると、これはリュディア金貨という世界最古の金貨らしい。今から2600年も昔にリュディア王国という小国で作られたという。当然、希少な金貨であり、特に最初期の貨幣は見つかっていないらしい。
「一枚、500万円以上……」
 いつもなら飛び上がって喜ぶところだが、そんな気にもなれない。
 得体がしれない。
 一体どこで入手したのかも、考えない方がいいだろう。
 文字通り、怪物の口の中から生きて帰ってこられたのだから。
 
 

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