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アスリートの神格化はいかにして行われているのか

(元タイトル:音楽家がいじめを行うことへの考察(という名の…))

スポーツに打ち込んだ人間が「人格を含めて」優れているとされている風潮に対する考察です。

スポーツ選手ってやけに神格化されていませんか?

スポーツをすると精神的にも成長するとか、スポーツは世界を変える、あなたもスポーツを的な言説がよくあるように思える。

参考動画 論理が一つも理解出来ない三井不動産のCM https://youtu.be/OAaGt-1aS3Y

スポーツを極めたスポーツ選手はとても尊敬しているが、それは自分は誰よりも強い、と信じて練習を何年も重ね続ける愚直さに対してであり、一種の狂気に対する畏怖の念でもある。

その愚直さはそれ単体で評価されるべきものであると自分は思っているのだが、少なくとも現代においては「まっすぐな努力を出来る素直で誠実な人間」として評価されているように思う。

ただ別にスポーツをしたところで心が綺麗になることはなく(逆に言えばスポーツをしたからと言って心が汚くなるとも言えないが)https://ja.wikipedia.org/wiki/PL%E5%AD%A6%E5%9C%92%E9%AB%98%E6%A0%A1%E9%87%8E%E7%90%83%E9%83%A8%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%81%E6%AD%BB%E4%BA%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6 のような事件は当然のように起こる。

これはつまりスポーツを頑張ることは精神的な成長とは関係がないということを示していると思うが、世間的にはそう思われていなさそうだ。(いやそれは例外で…という例外処理を無限にし始めるのはあまりにも論法としてずるい)

音楽家という職業を考えた時、彼ら彼女らは才能を持って生まれ、その上で長年努力をし、長い時間をかけて一つの作品を作り上げているプロフェッショナルである。決して比較するものではないとわかった上であえてやるが、努力や大変さという意味ではスポーツ選手と比較しても劣らないものであると考えられる。

ただ恐らくスポーツ選手と音楽家が同じ問題を起こした時に、心象が悪いのは音楽家の方であろう。

スポーツ選手本人は人格的に優れているのにも関わらず、環境がそうした、という言説が考えられるのに対し、音楽家は…ね?みたいな空気が漂いそうに感じる。

この神格化に対して、なぜこれが発生してしまうのか、というのが最近の興味関心である。

①自分が知っているものさしと近いから

多くの人にとってスポーツというのは馴染み深いものであり、多少練習して少しうまくなるという経験を持っている。自分が少し前進するという経験を持っていることで、その一歩をとてつもなく重ねた選手の努力量を想像出来、応援しやすいのではないだろうか。

応援する理由としては少しわかるが、そこから人格肯定を含めた神格化へとつながるルートが少し弱いように感じる。

②自分の知っているものさしに無理やり当てはめようとしているから

多くの人にとって馴染み深いスポーツであるが、実際のアスリートの練習量はある種の狂気である。彼ら彼女らの狂気を理解し難いため、「人格的に優れている」という自分が知っているものさしに無理やり当てはめ、理解した気になりたいのではないだろうか。

自分のものさしにすることで、尊敬を抱いているはずのアスリートを、実際には自分でも勝利可能な場所に置くことが出来るというズルさを孕んでおり、もしかしたらアスリート側もこのズルさに知らずしらずの内に内包され、自ら大衆に理解されやすい凄さに迎合しようとしている可能性も考えられる。

これで「アスリートの人格を肯定すること」の理由を少し考えられるが、これは作曲家などにも同様に発生すると考えられ、アスリートのみが神格化されることへの説明とならない。

③アスリートという「脆弱性」に対するリスペクト

アスリートのみが持っている弱さというのが「10-20代がピークである」ということである。作曲など経験が蓄積してゆく作業は将来よりよくなるという展望が持てるが、アスリートはいま金メダルを取っている人も数年で劣化してゆくということが確定している。

この刹那性に対して「儚いものへの慈愛」的な感覚で神格化が行われているのではないだろうか。これは一種の赤子への赦しであり、実際にはどこかアスリートを見下している可能性が考えられる。

ただ実際には「昔スポーツをやっていた人」への好印象もあり、この刹那性に対する敬意理論は少し弱いかもしれない。

④もしかしたら理由なんて…

考えるたびに思ってしまうのが、「もしかしたら理由なんてないのかもしれない」ということだ。

最初に参考動画として紹介した三井不動産のCMのように、実際には論理などないのかもしれない。これは「言葉や論理なんかなくても伝わるくらいスポーツが素敵」なのではなくて、「多くの人がそうであると認識するまで、そうであることで利益の出る団体が主張し続けた」ということでしかない。

一度スポーツをやること、応援することがメインストリームであり人格の綺麗さを表す助けとなれば、その流れに疑問を持たせないようにし続けることが多くの人にとっての利益となるため、このメインストリームは終わらない。

このメインストリームにデメリットがなければそれで良いのだが、実際にはそうでないのでわざわざこうやって主張している。

そもそもの話だが、スポーツはかなり生まれつきの要素が大きい。スポーツを頑張れるかどうかという完全に遺伝子ガシャの要素で人格がどうこう言われるのは「健康な側」に有利すぎる。(上に理論的には間違っている)

別に努力するのは読書だって音楽だって芸術だっていいはずなのに、「スポーツ偏重」社会であることから、誰も将来使わないスポーツに無駄な時間が費やされ、分野の多様性が失われている。

別に学校でスポーツをやったところでなんの意味もない(将来役に立つことはない)のにも関わらず、多くの人が無為に時間を過ごしている。

逆に「なんで勉強なんかしなくちゃいけないの?」と聞く人は多いのに「なんで運動なんかしなくちゃいけないの?」と聞く人がいないのはかなり不気味な状態ではないだろうか。

繰り返しになるが、「言葉や論理なんかなくても伝わるくらいスポーツが素敵」なのではなくて「そうであるとみんなが言っているからそうである」だけだ。

いや、もしかしたらだからこそなのかもしれない。

多くの人がスポーツという無為な時間を多く過ごしてしまった。ただ、人は自分が無駄な時間を過ごしたということを認めるのはかなり難しい。スポーツは心身ともに成長させるので素晴らしいという言説に騙されてしまった日本国民の多くが「自分のスポーツ体験は無駄ではなかった」と慰めるべく、次の世代にまで同様の嘘を付き、全員を騙そうとしているのではないだろうか。

Noteを書き始めた時にはまとまっていなかった考えが一旦着地しました。

もしかしたら明日には全然違う結論に達しているかもしれませんが、ひとまずの結論ということで。

様々な仮説がありましたが、これを読んだみなさんが鋭いコメントをしてくださることを心待ちにしております。よろしくお願いします。


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