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【つながる旅行記#244】敦賀ムゼウムで学ぶ『ポーランド孤児』について

前回は氣比神宮に寄りつつ、赤レンガ倉庫が休館日だった。

それでは、「人道の港 敦賀ムゼウム」であれこれ学んでいこう。

ここは1920年代の「ポーランド孤児」、そして1940年代の「命のビザ」に関わる展示を行っている博物館だ。


ではまずは「ポーランド孤児」から解説していこう。

実はかなりの親日国として知られるポーランド

その秘密がここにある。



【そもそもポーランドってどこ?】

いや親日国だと知っててこんなことを言うのは最高にどうかと思うのだが、ポーランドってどこにあるの?

「お前は義務教育や受験勉強で何を学んできたんだ?」と激怒している人の顔が浮かぶが、とりあえずこのレベルから始めよう。

ポーランドの位置

要するにポーランドはドイツかつてのソ連の支配地域に挟まれた国なのだ。

そしてソ連なんて存在しないときから、ポーランドはかなり過酷な歴史を辿っている。

歴史のすべてを語っていたら文字数がどうなるやらなのでだいぶ端折るが、

ポラン族の作ったポーランドは、色々あって国内が衰退したところをロシア帝国プロイセン王国オーストリアという当時の三強国にジワジワ分割されて、なんと消滅したのである。


そしてなんやかんやで領土が他の国のものになったりと目まぐるしく変化しつつ、やがてポーランドの大半がロシア帝国のものになった。(1815年辺り)

国が消滅したとはいえポーランド人は存在していたので、独立へ向けたロシアへの抵抗が100年以上しぶとく続いたのだが、残念ながら独立するのは厳しかった。

そしてロシア帝国がそんな独立を目指すポーランド人を優しく扱うわけもなく、政治犯としてどんどんシベリア送りにして過酷な労働に従事させ、その人数は15万人〜20万人にもなったという。


(昔からこんなことしてたのかよロシア……)

シベリア

【第一次世界大戦と革命と独立】

酷い扱いを受け続けたポーランド人だったが、第一次世界大戦中の1917年にロシア帝国で2月革命が起きると、状況が一変する。

ロシア国内は革命のゴタゴタで大混乱に陥り、更に翌年にはドイツも革命が起きて連合国に降伏。

両サイドの国がどちらもボロボロになったことで、ポーランドはここへきて再び国としての独立を達成することに成功する。

しかし独立したはいいが、ロシア国内にいるポーランド人は自力ではポーランドに戻りようがないのである。

「ポーランド人だね!じゃあシベリア鉄道で国に帰りなさい^^」

優しいロシア人

……なんて流れには当然ならない。


ポーランド人はロシアにとっては雑に扱える労働力であり、台頭してきた社会主義勢力にとっても有用な存在なのは変わらないのだ。

(もちろん社会主義に反抗的なポーランド人は処分された)


ポーランド人たちは革命の混乱から少しでも遠ざかるべく、へ向かう選択をする。

途中で悲惨なことに幾度も襲われつつ、一部の人々がどうにかたどり着いたのは、ロシア極東のウラジオストク

そこでは1919年にポーランド救済委員会が結成されており、親を戦争や労働で亡くした子供たちを救おうと、シベリア各地で孤児を集めていたのだ。

生き残った親たちは子どもだけでもポーランドに返そうと、救済組織に子どもを預けたという。

やせ細ったポーランド孤児

【助けてくれる国がいない…?】

さて、当時革命で荒れまくりのシベリアには、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、そして日本が出兵していた。(※1917年の米騒動の原因)

第一次世界大戦も終わったというのにそんなところで何をしてるのかというと、「社会主義国家を作ろうとする動きはまずい!」という思惑があってのことである。(あとチェコ兵捕虜が云々)

しかしどうも戦っているうちにどうも社会主義勢力のほうが強そうということが判明し、それぞれの軍隊は諦めて自国へと帰還し始める


ポーランド救済委員会
はそれらの国々や欧州各国に働きかけ、孤児たちを救ってくれるように嘆願したものの、ことごとく拒否された

そんなことをしたら革命勢力に喧嘩を売るようなものだし、そもそも便衣兵だらけの状況で子供を救うのは軍隊といえど危険すぎるのだ。

しかも他国の子どものために自国の軍を危険に晒すなんて……


そしてアメリカ兵もシベリアから引き上げ、いよいよ残る国は日本だけになっていた。

もう頼めるのは日本しかない。

でも日本かぁ……。

「日本人は利己的で不親切だ。自己の利益にならないことはしないぞ」

委員の言

実はポーランド救済委員会の中では、上のような忠告をする人がいるほど日本はちょっとアレな国という認識だったのだ。

なにせあまり関わりがない国な上に、知っている日本情報は「江戸時代にポーランド人神父を殉教させた」、「でも日本人はポーランド人の捕虜には優しかったらしいよ?」という微妙なラインナップ。

すでに新渡戸稲造が『武士道』の出版で「日本は道徳もあるしまともだよ!」というアピールを開始してはいたが、ついこの前までヤバい国だったのは紛れもない事実なのだ。

果たしてこんなことを頼める国なのか……?


だがそんな事考えてる場合かと、ポーランド救済委員会の会長は日本へ渡ったのだった

日本の外務省は、会長が書いた孤児の窮状を知らせる文章を見ると、同情しつつ日本赤十字社の社長に手紙を送る

「両国との国交的に応じたいが、政府は経費の関係上、これを引き受けるのは不可能だ」

外務省より

(えっ……?)



【救出活動開始!】

外務省からの手紙を受け取った日本赤十字社は協議を重ねた結果、孤児救済を決定する。

なんだかよくわからないが赤十字社がやるならOKらしい。


しかし救出活動は前に述べたように危険が伴うのだ。

陸海軍の認可を得て孤児救済の方針が決定すると、シベリア出兵中の日本陸軍が直ちに孤児の探索と収容を開始した

そして1920年と1922年の孤児救済事業で、約800人のポーランド人孤児(+付き添い)が来日することになる。

ウラジオストクと日本を結ぶ航路といえば、もちろん敦賀港の出番だ。

ウラジオストク⇔敦賀

敦賀の人々は入港してきたポーランド人たちを暖かく迎えた。

そしてなにせ状態が危険な孤児たちばかりなので、敦賀で軽く食事や休憩をとらせ次第、すぐに列車で東京や大阪の施設へと移動させて治療をうけさせることとなった。

(東京:福田会 ふくでんかい育児院、大阪:大阪市立公民病院付属看護婦寄宿舎)



【ポーランドへの帰国】

日本へやってきた孤児たちのために、赤十字の支援に熱心な貞明皇后(大正天皇の皇后)を始めとして、日本中から多種多様な寄付が集まった。

そして来日当初は飢えて体力の低下と病気に苦しんでいた孤児たちも、施設での療養で次第に元気を取り戻し、とうとう帰国の日を迎える。

東京の施設で過ごした子供たちは、横浜港からシアトル経由でポーランドへ

「日本で暮らしたい」と泣きじゃくる子供もいたそうだ。


大阪では大阪城や天王寺動物園、そしてルナパーク(謎)に連れて行ったりと、子どもたちを街をあげて大歓迎したらしい。

大阪組は帰国は神戸港からロンドン経由でポーランドへ

ここでも「このまま日本にいたい」という子供がいたが、彼らは帰らねばならない決まりなのだ。


どちらの港でも、君が代とポーランド国歌を歌い合い、赤十字と両国の旗を振って、船が見えなくなるまで手を振り続けたという。


日本はこうして無事に孤児たちをシベリアからポーランドへと帰国させることができたのだった。

そしてポーランド国民は、この恩を未だに忘れていないのである。



……全然知らなかった。

こんなことが第一次世界大戦後に起きていたとは。

そしてシベリア抑留についても学んでいたつもりだったが、それよりずっと前からポーランド人がシベリアで100年に渡る苦難の歴史を歩んでいただなんて……。


いやしかし当時の日本赤十字も、それを支援するために寄付した日本人も、本当に素晴らしいなと思う。

過去の日本人たちの行いによって今のポーランド人の信頼を得られていることに感謝しなくてはいけない。


でもエルトゥールル号遭難事件はやけに知られている気がするけど、ポーランド孤児の方はなんでこんなに知られている感じがしないのだろうか?

ポーランド孤児の救出の場合は、軍隊を動員して危険も犯したりと、結構凄いことをやってる気がするのだが……。

(両者を比較するようなものではないかもしれないけど)


……まあなんというかあれだ。

引き続き献血しよう。

自分ができる赤十字への貢献はそれくらいだからね!!



この孤児たちが「極東青年会」を設立して、第二次世界大戦で小野寺信がうんたらかんたらという話もあるのだが……それはまたどこかで。

歴史はどんどんつながっていくのだ。良いことも悪いことも。

なのでできる限り良いことをしていかねば。


というわけで、次回は杉原千畝の命のビザについて話そう。

相変わらず知らないことばかりだが、学ぶのは楽しい。



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