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ヘーゲル哲学から見る、認識におる仮象と理念について(登場人物:ヘーゲル デカルト カント マルクス 置塩信雄)①

はじめに

ヘーゲルの小論理学の予備概念と有論を踏まえた上で、人間の感覚的だったり抽象的な認知と、それが生まれる土壌を、ヘーゲル・カント・デカルト・マルクス(および彼の創設した経済学や数理経済学)の4人の見地から比較検討しようと思うよ。

これは私の思考をある程度整理するためのメモみたいな感じだから、ちゃんとした形式じゃないと思うけど、許してね。あと、哲学特有の語彙やヘーゲル独自の語彙などは、なるべく神経科学や言語学の言葉を使って敷衍する予定だけど、ある程度登場するのでそこもご容赦してほしいな。ある程度哲学特有の語彙の前提知識がある上で議論を進めるので、気になった方は哲学図鑑とかで調べてくれると嬉しいな。

まず第一回目は、議論の大元になるカントの哲学について解説するよ。

カントの哲学について

カントの哲学における最大の特徴は、人間が認識活動を開始する際に、すべての現象に制約を課さざるを得なくて、現象それ自体は人間が持つ認識の枠組みの中でしか理解できないことを指摘した点にあるの。そして、現象を数多ある他の現象から切り離して、認識した現象を一つの独立した対象として区別するための認識作用を悟性と定義したの。この悟性の役割は、経験的に得られる感覚的な現象の理解(これを経験的な命題という)を、他の事象との区別によっておこなうという特徴があるの。そして、この認識の枠組みによって得られた、感覚的に自分の意識にたち現れてくる対象を感覚与件と呼ぶよ。ただ、この感覚与件は、他との区別によってのみ得られた、抽象化されただけの空虚な現象なので、それを具体的な属性(これをカテゴリーと呼ぶ)として理解することで空虚な現象は、具体性のある身近な現象となることで、現象を一つの他の物との関係で捉えることができて、現象を対象として、具体的な物として意識は認識できるの。

ここまでが、人間が普段おこなう現象を、自分にとって身近なものとして認識するための過程なんだけど、カントの哲学には、一つのアポリアがあるの。それが理性の問題だよ。ここまでの流れを見ると、人間はあくまで、悟性の枠組みの中でしか現象を理解できないので、それは現代的な用法で言い表すなら個人の主観=認知バイアスの中でしか捉えられないことになるよね。それだと、人間は自分に与えられた感覚与件を、個別具体的なものとしてでしか理解できないので、自分の感覚的なものに依存せざるを得なくて、簡単に言えば人間一般の万人に理解することができる、共通の経験や知識を共有することが難しいってことになるの。ただ、それは現実の世界からも疑問点があるよね。例えば、特に数学や自然科学がそうだけど、ある規則に従えば、共通の知識や知識を共有することができる普遍的なものは存在するよね。

そこが、カントの哲学の問題意識の大きな点で、万人に共通に理解することが可能な経験や知識は、どのようにして可能なのか?これが大きな問題となったの。ここでカントは、人間の持つ理性に焦点をあてたの。理性は、人間が万人に持つことのできる能力で、それは具体化された経験的な感覚与件を普遍的なものに高める能力を持っているの。ただ、これが悟性と違うところは、理性はある種世界に先天的(ア・プリオリとよぶ)に存在するとされる理念(ideal)のようなもので、個別具体化された個人がそれそぞれ持っているというのも、世界に理性という理念が偏在するからで、人間はそれを分与される形で保持しているものとして捉えたの。つまり、悟性という人間が認識活動をする際に発揮される、個人が各々でもつ能力とは独立したものとして存在すると考えたんだね。そこで、さっき言ったようにアポリアが生じるの。人間は、認識活動をする際には先程まで説明してきた通り、悟性とカテゴリーという認知的なバイアスの上でしか、現象を対象として理解できないのに、理性がそれとは独立した形で存在するのならば、理性が人間に分与されていても、どうしても悟性とカテゴリーという認知の枠組みによって制約せざるをえなくなるよね。

カントの哲学では、そこに人間が人間であるがゆえに起きる理性の限界を指摘したの。具体的に言うと、人間の認知と世界に存在する理念の間にある乖離は4つのアンチノミーとして現れると言われているの。このアンチノミーの具体的な内容については、本質的にはあまり重要ではないのでここでは省略するけど、理念とは人間の認知枠組みである感覚的な現象の理解(経験的な命題)を持たない、純粋にそれとは独立した経験的な裏付けを持たない観念(概念)であるの。そのため、人間はそれを認識する際に、何度も確認したように現象を理解する際に発揮される悟性とカテゴリーによって、それを認識することになるので、人間が導く結論は2つの相反する結論(肯定と否定)が生じることになるの。その理由は、詳しくはカントの「純粋理性批判」によって論証が試まれているけど、簡単に説明するなら、理念は世界に偏在する純粋に経験な裏付けを持たないものなのに、それを経験的なものとして人間の認識のバイアスの中でのみ理解しようとするから。

ここでは、人間と世界との関係は、人間のバイアスの中でのみ認識された現象の総体でしかないから、人間からみた世界の本質は、理念の偏在する世界との相関関係の中でしか存在しないの。カントはこの事態を仮象と呼んだの。そして、この仮象を相関関係を乗り越えて、肯定とも否定とも取れる結論を証明する論証を仮象の論理学(弁証論)と呼んだの。ただ、カントにおける仮象の論理学は、あくまで人間理性の限界を示すためのものであったから、それは一つのトートロジーとして完結されたものだったの。なぜなら、弁証論においては、2つの命題について、一方について真であるといえ、もう一方である命題に対しても真であると言えるからだよ。具体的に命題論理において表すなら

α∨∼α

の形を取ることになるね。また、人間からみた世界の本質は、理念の偏在する世界との相関関係の中でしか存在しないためという事態は、人間の認識の枠組みという前提に立った上で、その中で現れてくる世界という写像の関係として捉えると、それぞれの相反する命題をひとつずつ取っていくと論理式としては

(α→β)⇔(∼α→∼β)

という関係を持つことからも、仮象の論理学は、トートロジーの関係を持つと言えるね。


結び

このように、カントの仮象の論理学を紐解いていくと、ある種の論理学的なトートロジーに行き着くという結論が出たね。これを痛烈に批判して、ある種乖離して、仮象の外へと追い出された理念である理性の復権と、仮象と理念は一体であるという相関関係をラディカルに推し進めたのがヘーゲルのカント批判の主な要点となるよ。具体的には、第二部でお話するので、また読んでくれたら嬉しいな。




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