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白木蓮の思い出/この街で生きていく

「あ、白木蓮が咲いているねえ」
買い物の帰りに白木蓮の木を見つけて、夫に話しかけた。

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ふと数年前の記憶が蘇る。
社会人になってすぐに住んだ街での記憶だ。
私がかつて住んでいたマンションの近くには、大きな白木蓮の木があった。
歩道橋を登ると、白木蓮の木に手が届きそうなほどの高さからその花を眺めることができて、天気が良い青空の日は青空と真っ白な白木蓮の花のコントラストがとても美しかった。白木蓮の花が開いていくことは、この季節の楽しみのひとつだったのだ。

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その街で過ごしたのは、2年ほどだった。今思い返すと、季節の移り変わりを感じることのできる、美しい街だったと思う。
梅の木や桜の木がたくさんあり、新緑の季節は緑が美しく、百日紅の木もあり、夏から秋はピンクの美しい花で溢れていた。秋には、金木犀の香りに心を踊らせ、美しいイチョウ並木を歩いた。

そう、今思い返すと、私はあの街がすごく好きだったのだと思う。

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「仕事は楽しいんだけどさ、生活の全部の変化を自分で作っていかないといけないのがしんどいんだよね」

ふと、同い年の友人が口にしていた。彼女は一人暮らしで、たいてい仕事で海外にいることが多い。ちょうど更新のタイミングで引っ越すか留まるか悩んでいた。

ああ、そうだ、とその言葉で思い出した。あの街を引っ越すか悩んでいたときの心のざわめき。私は一体いつまでこの街に住むのだろう、ずっとこの仕事をしながらこの街に住み続けるのだろうか。引っ越すのか、引っ越さないのか、引っ越すのであれば引っ越し先を決めなければならない、しかも1ヶ月以内に。

なんというか、もちろん一人暮らしを楽しんでもいたのだけれど、生活の全てが自分ひとりにかかっている、全ての決断が自分ひとりで出来てしまう、そんな状態に少し疲れていたのだと思う。社会人になって、会社のすぐ近くに住んでいたのだけれど、それもちょっとしんどかった理由のひとつかもしれない。

ひとりで何でもできるって楽しい、でも、ちょっと疲れたな。多分、そんな感じだったのだと思う。

私はいつまで東京にいるんだろうか、次住むところにはどのくらい住むんだろう、「ここにずっと住みたい」と思える街に出会えるんだろうか。ここはずっと私がいていい場所なんだろうか。学生の頃から実家が何度か引っ越していたこともあって、なんだかそんなぼんやりとした不安をずっと抱えていた。

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年明け、お腹の中にいる子に思いを馳せつつ、おそらくこの先もうしばらくはないだろう、引っ越しをした。まさか妊娠中に引っ越しをすることになるとは思ってもいなかった。

私は、白木蓮の木があった街から何度か引っ越し、パン・オ・ショコラの美味しいパン屋さんのある街にはかなり長く住んだ。

新居に引っ越してきてしばらくは、夫は「なんだかまだ落ち着かないねえ」「誰かの家に泊まっているみたい」と言っていたけれど、数週間経つとすっかり新居が「我が家」と化した。引っ越してきてなかなか慣れなかった電気のスイッチの場所も、ごみ捨ての分別も気がつけば何も考えずにできるようになっていた。こうして、段々と私達はこの家に馴染んでいくのだなぁと思う。

この街は、駅を降り立ってすぐに私も夫も「良いねえ」となった街だった。家族で、この街に住むイメージがすんなり湧いたのだ。それまでいくつもの街を見て、いくつも物件を見たけれど、何だかどこもピンと来なかったのだ。それが何の違和感もなくふたりとも生活しているイメージがついたので、ここだね、とあっさりと夫婦で決めた。

住む場所を決めてから本当にたくさんのタスクがあったけれど、それらを何とかこなし、新居での生活が始まった。

毎朝、カーテンを開けるとさんさんと朝日が差し込んでくる。私はこの家で起きて、温かい光の中で本を読む時間がとても幸せだ。前の家から一緒に引っ越してきたモンステラはいつのまにか芽吹きはじめていた。そう、春が来るんだ。長かったような、短かったような妊婦生活ももうすぐ終わる。

お気に入りのお散歩コースには、桜の木があって、もう少ししたら満開になるだろう。引っ越してすぐに訪れたお蕎麦屋さんはすごく美味しくって、雰囲気も良く、すっかりお気に入りだ。気になっていたパン屋さんに行ってみたらパニーニが美味しくって、すでに何度も通っている。

ここが来月産まれてくる子どもにとっての「我が家」になるのだな、と思うとなんだか不思議な気持ちになる。

どうか、この街が、この家が我が子にとって心休まる場所であってほしいと思う。我が子の目に、この街のどの景色が刻まれていくのだろう。お腹の中でポコポコと動き回る子どもの、恐らくまだ見えていないだろう目に一体どんな景色が映るのか。私達は何を見せてあげられるだろう。そんなことを考えつつ、私は今日もこの街で生きていく。


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