太陽を浴びた皮膚

胆管がん

父親にそう宣告されたのは昨年の9月のことだった。

それが判明してもなんとなく実感がわかなかったのは、目の前にいる父親が変わらず喋れて屈強な身体のままだったからだ。もともと寡黙な人で言葉を多くしゃべる人ではなかった。だから、なにを考えているのかわからないことのほうが多かった。今応援してくれているのか、励ましてくれているのか、やめろといっているのか。その真意が推し量れないことのほうが多かった。

ちょうど福岡にでてきて、くだらないなりにも地に足をつけ生活をして、自分なりのひとりだちをはじめた頃の話だ。まさに青天の霹靂とはこのことで、言葉にできないドロっとした不安が立ちこめたのを覚えている。

それから、心配はしていたと言えど自分自身の生活をまっとうしていた。
でも心のどこかで、この話も収束していくと思っていた。いくら癌とは言えどこの時代なら癌は手術をして治療をしていけば生き延びれる。勝手に楽観視していた自分を大きく裏切ったのは、精密検査の結果進行がすでにいくところまでいっていて手術で摘出することが不可能だということだった。いわゆるステージⅣ、もって1年、さらに胆管がんの生存率はかなり低いと言われた。

大人になったら、ある程度のことは耐えれると思っていた。
多少のことは経験して、あぁなるほどそれね、と言わんばかりに平気になっていくのだと思っていた。ただ、突然目の前に突きつけられた現実に脆くも崩れていく自分がどうしようもなかった。誰かに弱音を吐露したかったというのが本音だが、それは違う気がして誰にも話さず、何事もないように生活していた。

父はそのまま放射線治療をしに鹿児島へ入院した。あの頃、コロナ禍が収束したとはいえ面会者の制限は依然厳しく、鹿児島までお見舞いにいくことはできずただ帰りを待っていた。一抹の望みをかけて。
母が付き添い人として一緒に行き、穏やかな時間が少しでもあってくれることを祈った。



振り返ればうちの両親は母親が強かった、父が母を傷つけたりしたところをみたところがなかった。母からしたら、父のたまにみせるしょうもないガキっぽいところに呆れたり叱ったり、いわゆるか『かかあ天下』というやつだ。思春期の時は、その夫婦の様子がたまらなく嫌悪していて一緒に暮らすのがしんどくてたまらなかった、それと同時に尻に敷かれる結婚をしたらろくなことはないと子供ながらに思っていた。けれど、なんやかんやと父は母と連れ添っていた。愛妻家なのかどうかはわからないけれど、結局のところ3人の子供と妻を支えるため大工だった父は朝も早く仕事にでかけ、雨の日も風がひどい日も現場にでて、太陽を浴びた皮膚は年から年中焼けていて、50をすぎてもみすぼらしい身体つきではなかった。大人になって思うのがすさまじいことをやってのけていたんだということだった。

でも、振り返ってみても父親となにを話したのか、どう話し込んだのかそこまで思い出がない。というよりも会話をして心地良かったり、なるほどと納得をした試しがなかった。口下手なんだと思うけど親と子の関係ならもっと上手く話せたのにと思いながらも、父はいつも言葉を使わずにいた。
子供の頃はそれがなんとなく腹立たしかったときもあったし、『愛されてない』と勝手に捉えていた時もあった。今思えばとても未熟だ。そして親をわからない子は時残酷なことをしているのかもしれないとも思ってしまった。
野球の大会、うまくいかなかった時に、言葉たらずの励ましの言葉を『冷やかされてる』とおもって激昂したこともあった。素直じゃない自分も悪いけど、父は初めての息子との体当たりを見事に失敗し続けていたんだと思う。父親になることがはじめての父は悪戦苦闘の毎日だったんじゃないだろうか。

そうやって育った自分はというと、『何も言われないから』と勘違いしてなんでも自分で決めてしまうようになった。進学先、進路、やりたいこと、報告する前に決めて、事後報告になることがしょっちゅうでそれは流石になんで相談しないのか怒られたりしたけれど、こっちとしては相談しても無駄だとおもってるからしなかっただけだと言わんばかりに生意気なことを言っていた記憶がある。間違いなく家族のなかで一番の異端児だったと思う。他の兄弟はそうではなかったから。

ただ、その時はきづいてなかったけれど
結果的になんでも自分の決めたことはやらせてもらえていた。
野球も、音楽も、旅も。



いつ呼び出されてもいいように新幹線1本で帰ってこれない場所への遠征は避けた。母からたまにかかってくる施術後経過はいつも芳しくなかった。
結局鹿児島まで治療しに行った結果、進行が治ることはなく、いつにもまして体調が悪くなっていく一方だった。帰りの新幹線で体調が急変した父はそのまま実家に戻ることなく直で大学病院に搬送され入院をすることになった。癌が発覚してまだ3ヶ月のことだった。


それから退院して少しずつコケていっている身体に気づく。それでも本人は職場の職人仲間たちのもとへ復帰することを目標に頑張っていた。

医大から退院したあとは以前よりは身体が動くようになったらしく、たまに散歩をしたりしてたり、ラジオをかけて外を眺めていたり、実家にいるときは緩やかにすごす日もあったみたいだ。

年があけて、母からアウターを着た父の写真が送られてきた。みすぼらしい格好で冬をすごすことになるんじゃないかと心配した父が、息子が着るためのアウターをUNIQLOで選んでいる、どの色がいいのか選んでほしいという文面だった。今は自分の心配をしろよ、と苦笑いしつつ、そういう父の好意を受け取らなければいけないと思ってありがたくいただいた。父いわく、お年玉だったそうだ。写真にうつった父親がショッピンモールにいる姿は日常が戻ってきつつあるんだと安心した。

春を迎えると、一時的に親父は職場へと復帰した。

余命が宣告されている状況で、なんだかそれはとてもいい傾向に向かっているのではないか、医者がいっていた生存率30%のなかに父は含まれているのではないかと少しだけ期待していた。

でもそれは長くは続かなかった。
ちょうど桜が散った頃、父親の容体がまた悪くなってきた。胆汁をだせなくなってきているから黄丹がひどく熱もあがってそのまま入院し胆汁の身体のそとに出す手術をすることになった。

1回目の手術の経過をみていると、あまり良くならなかた。

これらの報告を遠くの街で母親の不安そうな声で説明を聞くたびに
心臓が締め付けられそうだった。目の前の父がどんどんと弱っていく姿を目の当たりにしていた母の気持ちを考えたらもっと締め付けられるような気がした。

その頃の自分はというと、とても忙しなく、日々に追われ、生活と迫りくる音楽との葛藤、言葉にできない無情なことの数々をいっせいに浴びてた春がすぎた無気力な頃だった。

今目の前のことがままならない状況になっている自分が、懸命に療養している父親に合わせる顔がないと思っていた。
本当に情けなくって、父親には一瞬で見破られてしまって、また心配をかけるのと心残りを少しでも残させたくなくて、会いにいくことができなかった。まだ時間はあると思っていたからだった。


6月にはいってすぐのことだった。俺は関西遠征にでていた。
the ciboのぜんさんと対バンの神戸PADOMAの日のことだ。

自分の出番が終わった頃、母から着信がはいっていることに気づき急ぎ折り返した。どうやら状況は急変してしまったようで、胆汁をだせなくなってしまった身体が悲鳴をあげ、すぐにこのあと手術をしないといけなくなった。ただ。その結果がよくなければ、父に起こるこれからのことを説明をうけた。

『胆汁が最早自分でだせなくなってしまっている父の身体に管を通し、これから身体の外に管を通し排出するようになる。』

つまり、身体の外にチューブが露わになって、医療用の袋に胆汁をだす、一生それを交換しないといけなくなる生活になる、こうすると寝返りも自由にできなくなる。もちろん仕事の復帰は消滅する。

父親にとって、すこし見えていた希望が消えた瞬間だった。

その手術も極めて危険で、容体が落ち着かなかったら最悪の事態もあるからすぐに帰ってきてと言われた。

悔しくも時計の針は22時をさしており、神戸の街からどう頑張っても福岡に戻れないことを知り、ただ祈ることしかできなかった。ライブは残り1本も飛ばさないといけない。

不安になりながらも、打ち上げにはでれず、万が一のために始発待機することをPADOMAのノリオさんとぜんさんに伝えた。
申し訳なかった、心配をおかけしてしまうこともすべて。
2人がとても話を聞いて言葉をかけてくれて、大丈夫と言い聞かせて朝を待った。

結果は無事に成功し、命は繋ぎ止めた。
ただ、父親の身体にはチューブが埋め込まれそれが外の排出袋と繋がった姿になった。それを喜んでいいのか。父親の気持ちは複雑なものだったと思う。一旦は容体は安定し、父に会いにいったものの疲れ切ったからだ、以前よりも痩せこけた腕、かつて現場を闊歩していた職人の父の姿はなかった。そこから今まで以上のスピードで痩せ細っていった。

夏になるとまた、実家と病院を入退院する生活が続いた。
それでも、家に帰ってきた時にたまに会いに行っていた。

たまたま実家に立ち寄ったとき
この状況になってはじめて父と二人っきりになったことがあった。

蝉が鳴く外、クーラーが苦手な父はうっすらと空調を効かせた部屋で扇風機を必死に回し熱さを凌いでいた。

なにか喋ることを探したけれど、見つからなかった。
ただ、心の奥にあったひとつの気持ちだけ吐露した。

『あまり顔もだせなくて、来れなくてごめん』

そういうとゆっくり

『お前はお前のことを頑張りなさい』

と言われた。

『頑張っているなら頑張りなさい』

ただ、それを繰り返し伝えてくれた。
散策することもなく、変に気を使うこともなく、口数の少ない
いつもの父親の姿なのに、その時になってようやく、あの子供の頃にに投げかけてもらっていた言葉の意味を今更ながら知ったのだった。

父はいつも応援してくれていたのだ、否定することもなく、飾ることもなく、素直な気持ちで、余計な言葉を付け足すこともなく。自分の浅はかさも未熟さも、子供ながらそれを無碍に扱ってしまったことも、すべて謝りたかった。

そして、勝手に決めて飛び出した自分はその父親に対して頑張っていると言えるのか自信がなかった。父が立派な親父であった、その立派な親父の前で胸を張れるような生き方をしていなかった。

『今頑張っている最中だから』

と苦し紛れに口にした言葉も強がりだった。

そうすると父親はフッと笑ってそのまままた口を閉じた。

どうやらやっぱり、なにもかもお見通しのようだった。


つづく。


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