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冬の時代の救世主『GODZILLA(2014)』が繋いでくれた「今」を、俺たちは生きている。

 先日、またしてもスペースで“冬の時代”の話をしてしまった。かれこれ数回同じ話をしていて、フォロワー各位も「おじいちゃんがまたいつもの話してる〜」と童話の冒頭の子どものような感想を抱いただろうが、ひとしきり話し終えたら満足して昼寝するおじいちゃんなので、どうかこれからも我慢して聞いてあげてほしい。

 20代後半以降の怪獣映画ファンであれば実体験として思い出深い?であろう怪獣映画冬の時代。今でこそウルトラシリーズは2クールの新作+劇場作品が毎年確約され、ゴジラシリーズはアニメや人形劇など映画館だけに収まらない活躍を全世界で広げている。ガメラは大人しいとはいえ、2023年にはNetflix独占配信のアニメシリーズとして静かに復活。海の外でも『ランペイジ』や『アクアマン』などがそのエッセンスを受け継ぐ超大作として、銀幕で暴れまわっている。

 今でこそあの季節のことを懐かしめるだけの月日が経ったけれど、具体的には2004年の『ゴジラ FINAL WARS』以降、このジャンルとの付き合いは飢餓に耐え忍ぶ苦しいものだった。2006年の『小さき勇者たち GAMERAや『ウルトラマンメビウス』の劇場用作品がいくつかあったとはいえ、怪獣映画が年末映画のお約束ではなくなり、作品数は激減。今でも忘れられぬ思い出として、ニューギンからリリースされるパチンコ機に「ゴジラの新作特撮映像」が演出として使われると知り、しかし当時小学生ゆえに実機でそれを観に行くなど叶わず、哀しみに暮れる私を見かねた母親が非売品の販促用DVDをネットオークション経由で入手してくれて、その数分間しかない新規映像で糊口をしのぐしかない時代だったのだ。

 そうした長い長い冬の時代に、少しずつ春の予感を感じさせてくれたのが『パシフィック・リム』であった。『パンズ・ラビリンス』の監督が巨大ロボットVS怪獣をマジでやるらしい。SNSなどが身近でなかったことを思えばどうやってこの映画のことを知ったかはもう定かではないが、HD解像度が実装される前のYoutubeでこの映画のトレーラーは繰り返し観て、タンカーで怪獣の頭を殴るロボット(!!)の映像に、暗い部屋で一人半狂乱していたことだけは鮮明に思い出せる。

 そして公開当日、学校をズル休みして電車に乗り、出来たばかりのIMAXシアター初回で“それ”を目撃した。巨大怪獣が暴れまわり、都市は大混乱。それに対抗すべく、人類は巨大ロボ「イエーガー」を造り出した。ラミン・ジャヴァディ作曲の、ロックテイストで勇壮なメインテーマに乗せて、主役機ジプシー・デンジャーの出撃シークエンスが描かれる。当時の私は、もうこの「格納庫」のシーンで泣いていた。3Dメガネでは涙が拭えず、しかし眼の前の“供給“を1秒たりとも見逃したくなくて、後ろに人が居ないことを確認の上で前のめりでIMAXの巨大スクリーンに喰らいついていた。

 鋼鉄の巨人と宇宙怪獣の大激闘。『パシフィック・リム』はそうした日本のお家芸を、パロディで茶化すこと無く、その当時の最先端の映像で真っ直ぐ真正面から描いた。これを、これをリスペクトと言わずして、なんと言おうか。幼少期から魅入られてきた大好きな文化が、海の外から特大の愛と研鑽を重ねて放たれる、嬉しさと悔しさが入り混じった感動。頭がクラクラするほどの衝撃で劇場を後にし、また次の回のチケットを買って、同じシーンで泣き、心の中で拍手喝采を送りながら、家路へ着いた。

 して、この『パシフィック・リム』の日本公開が迫るタイミングで、二度目のハリウッド版ゴジラの存在がまことしやかに囁かれ、その情報もこれまたYoutubeで仕入れたものであった。コミコンでの告知映像を直撮りしたと思わる荒い画素の中で、破壊され尽くした街と粉塵の中で薄っすら見える、背びれと尻尾。あぁ、やるのか。『パシフィック・リム』の製作会社が、ゴジラをやるのか。期待と不安のマリアージュ。心拍数が上がる。

 海外製のゴジラに対する不安……と言えばどうしてもエメリッヒ版の話をせずにはいられないが、今回は割愛するとして、“原作”のない『パシフィック・リム』とは異なり、ゴジラとなれば気が気でない心境になってしまうのは、日本の特撮ファンならではの偽らざる本音。国産特撮が途絶えた今、アメリカによる新たな解釈、最新の映像技術で描かれるゴジラがやってくる。それが着ぐるみでなくフルCG、タイトルも『GODZILLA』のみとくれば、もうこっちは腕組んで見守るしかない。

 それが、『GODZILLA(2014)』、通称「ギャレゴジ」である。

 実に長ったらしい自分語り前置きが済んだところで、今回は数年ぶりにギャレゴジを観た話です。周期的に観たくなるのに画面の暗さでどうしても睡魔に襲われてしまうので、こうしてキーボードを叩きながら、なのだけれど。

 監督:ギャレス・エドワーズ、音楽:アレクサンドル・デスプラ、主演は後のマキシモフ兄妹のアーロン・テイラー=ジョンソンとエリザベス・オルセンで、日本から渡辺謙が参戦したギャレゴジ。当時は日本でも大々的なプロモーションを展開していて、駅で号外を配布していたバイトのお姉さんに「さっき観てきたばっかりなんですよ〜」とはた迷惑な雑談をかましてしまった恥ずかしさが、今ぶり返してきた。

 さて、“面倒くさい”オタクの一人として、アメリカさんにはこの点は守ってもらわないとねェ〜〜〜〜〜と、一体どの立場で物言ってるんだという失礼極まりない態度で臨んだギャレゴジなれど、そのナメた態度はわりと冒頭から解かれ、何なら心の中で正座しながら見つめた覚えがある。古来から語られてきた様々な巨大生物の伝承と、水爆実験の記録映像とが交互にモンタージュされたオープニング。アレクサンドル・デスプラ作曲の“それっぽい”劇伴が、ジェットコースターのように緊迫感を煽る。近づく起爆、爆発、キノコ雲。降り注ぐ死の灰と、そこに重なる『GODZILLA』のタイトル。やられた。ここまでやっていいのか、と。

 ゴジラ論は人の数だけあるとして、その成り立ちとして核や放射能、人間の発展と科学の暴走に対するしっぺ返しのような側面は確かにあり、ギャレゴジは真っ直ぐここを貫いてきた。唯一の被爆国から産まれた文化が、このようにしてリプライズされるのか、という驚き。無論、これはある意味で「ゴジラ掃討のために水爆実験を正当化する」と見られてもおかしくはない危うさもあったが、この辺りの表現についてはギャレス監督もかなり闘ったという裏話があり、決して自国の行為を美化するものとして私は受け取らなかった。

その芹沢が冒頭で取り出す壊れた懐中時計が、後に重要な意味を持つ。エドワーズ監督もこだわったという、米軍の司令長官と広島の原爆投下について話すシーンにつながるのだが、脚本上は芹沢の背景について詳細な記述があり、実際に撮影もしたという。

渡辺「(芹沢の)父親が広島で悲惨な体験をしたことをロングスピーチで語り、原爆を使って怪獣を倒すのをやめてほしいって言うんですよ。(完成した作品では)形見ですってことになっているけれど、逆にそれが自分の中で1回咀嚼(そしゃく)されたことで、彼のバックグラウンドができ上がったところがあった」

当然、他にも多くのシーンが編集でカットはされており、エドワーズ監督もかなり試行錯誤したそうだが、結果的にはゴジラとMUTOの戦いだけでなく、それを取り巻く人間模様もグッと凝縮された。

渡辺謙「GODZILLA」出演に込めた日本人としての願い

 そこから間髪入れずに、今度は日本における原子力発電所での事故が描かれる。3.11の記憶がまだ生々しく残る中、これも背筋が凍る思いであった。放射能を求め巨大生物が人知れず街を襲う。主人公のフォード少年は住処を失い、その父であり愛する妻を失った核物理学者のジョー・ブロディは、事故の背後にいた巨大生物に執着するようになる。今思えば、どことなく『ゴジラ2000 ミレニアム』を彷彿とさせる登場人物の設定である。

 放射能を求めて暴れまわる怪獣といえば当然ゴジラを想像するところだが、実はこの原発事件の裏で動いていたのはムートーであり、本作にて最初に登場する大怪獣も彼なのである。

 当時、リーク映像を観てしまっていたのでなんとなく存在は知っていたが、一作目にして敵怪獣がいることは、事前の宣伝では伏せられていたので、ほとんどの観客にとってはサプライズとなったはず。どことなく『クローバーフィールド』の“アイツ”の親戚みたいなフォルムで、東宝特撮怪獣らしからぬエッジの効いたデザインに文化の違いを感じ取りつつ、こんなデカい怪獣が二体(夫婦)で暴れまわるとなれば、人類は大混乱。サンフランシスコやベガスが崩壊していく様子は、どうしても心が躍ってしまう。

 ムートーなる敵怪獣がいることで、今作のゴジラの立ち位置が明らかになっていく。1954年の初代のエッセンスを先述した冒頭に折り込みつつ、同時にギャレゴジはこの地球に生きる生物の頂点に位置する、いわば調停者のような側面を持ってもいるのだ。人間の味方ではなく、より大きなる存在に与する巨大生物。当時も多く指摘されていたが、なるほど確かに平成ガメラのそれっぽい。

 人類に警鐘を鳴らす水爆大怪獣でありながら、同時に敵怪獣と闘う「怪獣プロレス」の要素まで盛り込むとは、これはかなりの意欲作である。ゴジラの圧倒的な巨大感と、こちらがつい崇めたくなるような格好良さに満ちたハワイでの咆哮シーン(これまでの“焦らし”の一連と、洪水がジワジワとゴジラの接近を予感させ、待ってましたといわんばかりの顔のアップで“一拍置いての”咆哮!この緩急の素晴らしさ!!)でその存在を讃えつつ、無尽蔵に近い生殖能力を持ち環境を一変させかねないムートーには力でなぎ倒す。一本の映画で複数のゴジラ像が観られるのは、なんだか得した気分になる。

 ギャレゴジは決して、人類の味方ではない。平成ガメラが巫女と心を通わせることでその立ち位置が地球の守護神から少しずつ変容して、その距離感の変化がデザインにも表れる醍醐味があったのに対し、ギャレゴジは人と交わるようなことはない。ムートーを倒したことで結果として人類文明を守ったに過ぎず、彼の勘定の中に矮小な人類はカウントされていないだろう。だからこそ、(渡辺謙の)芹沢博士は魅入られ、調和することを諦めなかった姿が、続編で描かれる。

 人間の意思を超越し、地球の王と言わんばかりの存在感を放つゴジラ。核や放射能の具現化としてでなく、巨大生物が組み合って闘う映像のスペクタクルを堪能させてくれた本作は、2014年当時の私にとっては豪華な幕の内弁当のようで、10年に渡る飢餓から救ってくれた恩義を今なお勝手に感じている(“満腹”にはなってはいなかったが)。“ようやく暖かく迎えられる海外版ゴジラ”の来日に、確かにその日心が沸き立っていたのだ。

あえて苦言を呈するなら、本作には常に付いて回る「怪獣あんまり見せてくれない問題」はその通りだし、作中の登場人物らにゴジラやその他怪獣への知識がないため仕方がないのだけれど、わざわざ核弾頭を用いた挙げ句それを奪われるあたりの「なんで敵に塩を送るような真似を……?」と思わずにはいられず、少々ストレスが溜まる一連の展開であろうか。

筆者余談

 このギャレゴジは国内興行収入32億円のヒットを記録し、その年の12月には「2016年に12年ぶりとなる国産ゴジラ映画が復活」することが発表され、後にそれは『シン・ゴジラ』の名で銀幕にカムバックした。現代の日本人の中に強く眠る恐怖を震災と放射能である、と解釈したこの作品は、ゴジラファンを超えて多くの人の心に刺さる、まさに国民的作品になったことは、ジャンルの好事家として過大評価が過ぎる物言いだろうか。何にせよ、ギャレゴジのヒットがこの作品に結びついたとなれば、いくら感謝してもしきれないだろう。「ゴジラ」のコンテンツとしての復権は、この作品なしでは語れないのだから。

注目の「ゴジラ」新作について、上田(太地プロジェクトリーダー)氏は「今年のハリウッド版『GODZILLA』の成功を見届け、『やはり愛されている』と再認識し、新作製作を決意しました」と経緯を説明。15年夏以降に製作に入るといい、「脚本は開発中で、スタッフについてもまだお答えすることができない。ただ、16年の目玉作品として完全復活させます」と言葉に力を込める。日本版ならではといえる“着ぐるみ”の伝統については未定としたが、「一度ハリウッドの手にわたった『寄生獣』の権利が日本に戻り、あそこまでクオリティの高いものを作れるんだということを実証してくれた。優れたクリエイターがたくさんいらっしゃいますから、今までのノウハウを結集させながら、ハリウッドに負けない作品を作れる時期に差し掛かった」と自信のほどをうかがわせた。

元祖「ゴジラ」完全新作として製作決定!2016年に12年ぶり復活

 ギャレゴジ本国でもその勢いは衰えることなく、レジェンダリー社は怪獣映画のMCUこと「モンスターバース」を本格始動させ、ギャレゴジに続き『キングコング:髑髏島の巨神』を制作。怪獣映画と『地獄の黙示録』のマッシュアップたる本作は、キングコング映画のお約束である「NYの摩天楼で息絶える」流れを撤廃し、モンスターバトル路線への完全な移行を実施。

 そのエンドロール後で明かされた信じられない光景が実現化し、2019年には『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が公開。ハリウッド版『三大怪獣 地球最大の決戦』とも言うべきメンツが揃った怪獣バトル作品であり、同時にマイケル・ドハティなる狂信者の脳内を映像化した宗教映画という私物化が大きな反響を呼び、今なお忘れがたい傑作として私の中に刻まれている。

 すでにお腹いっぱいになりそうなのに、モンスターバースは集大成として『ゴジラVSコング』を繰り出してくる。よもや生きている間にゴジラとコングの再戦が叶うとは、誰が予想したであろうか。日米の特撮怪獣映画の祖が繰り広げる大合戦の前に、香港は焦土と化し、こちらの思考回路はショート寸前。途中参戦のメカゴジラをコングがFATALITYする奇祭の前に、言葉を並べ立てるのは最早無粋としか言いようがなかった。

 モンスターバースは今なお展開が続き、時系列的にはギャレゴジの後日談にあたる『モナーク: レガシー・オブ・モンスターズ』が配信ドラマとしてリリースされ、映画最新作『ゴジラxコング 新たなる帝国』が公開を控えている。昨年末からロングランが続いている『-1.0』と合わせて、日米ゴジラの最新作が同じ年に観られるとは、隔世の感を抱かずにはいられない。

 例えば2016年頃の自分に「あと10年我慢すれば庵野秀明と樋口真嗣の撮るゴジラがめちゃくちゃヒットして、あとなんやかんやあってウルトラマンとかライダーも撮るし、ハリウッドではコングと闘って、エヴァは終わる」と言っても、虚言に受け取られるだろう。それほど信じがたい豊作の年を今生きていて、そのきっかけを作ったのが『パシフィック・リム』であり、ギャレゴジなのだ。

 決して完璧な作品などと褒めそやすことも出来ないが、感謝の念だけはどれだけ語っても語り尽くせないだろう。ギャレゴジが切り拓いた怪獣映画の春は、嬉しいことにもうすぐ10年になろうとしている。もう、あの飢餓の時代に逆戻りしたくはないのだ。願わくば、この灯がいつまでも続くことを祈って、これからもギャレゴジにはお礼参りを欠かさない所存である。

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