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創り続けることでしか報われないクリエイターというお仕事『劇場版 SHIROBAKO』

 万策尽きなくてよかった。水島監督のTwitterによれば公開の三日前に完成し、白箱が納品に向けて全国を駆け巡り、映倫の審査が完了したのもその翌日の公開二日前とのこと。TVシリーズのクライマックスを彷彿とさせる大騒動が、実際に現実に起きていた。この劇場版の制作風景そのものが『SHIROBAKO』的であり、この作品を劇場で鑑賞できることがいかに尊く奇跡的であるかを物語っている。最後の瞬間までクオリティに妥協しなかった作り手の情熱や苦労の結晶を大スクリーンで観て、こちらはただただ感謝して拝み倒すことしかできない。本当に素晴らしい創作賛歌でした。

※以下、映画本編のネタバレを含む。

 TVシリーズ終盤、紆余曲折あった「第三飛行少女隊」最終話の納品を終えまた一つ夢に近づいた宮森あおいらアニメーション同好会の5人。「俺たちの戦いはここからだ」で締めくくられたように、アニメが終わっても彼女たちの人生はまだまだ続く。それから4年後の「夢の続き」が描かれると期待し劇場に駆け付けたファンが目にしたのは、崩壊寸前になった武蔵野アニメーション(ムサニ)の現状と、仕事への情熱を失った宮森の姿。とあるトラブルによって元請け作品の制作が打ち切られ、ほとんどのスタッフが会社を離れた今、ムサニにはアニメを自社制作する人員も士気も残されていない。そんな絶望的な状況から始まる劇場版では、今一度「なぜアニメを創るのか」という問い直しをしなければならない。TVシリーズの焼き増しと呼ばれようと、そのテーマからは逃れられないのだろう。

 TVシリーズで描かれたように、ありとあらゆる工程で尽力するスタッフが「完成(納品)」という一つのゴールを共有し全力を注ぎこむアニメ制作というお仕事は実に魅力的でそれ自体がエモーショナルである。同時に、多くの人間が関われば関わるほどに業務は細分化され全体像の把握は困難になり、人間関係の軋轢は全体の進捗を揺るがす大惨事に繋がる危険性を孕んでいる。その上、アニメ制作者はそれぞれが技術職であるがゆえに、いつ仕事を失ってもおかしくない不安定さをも抱えている。クオリティや納期を担保できる腕前がないと判断されれば、業界を干され食べていけなくなるかもしれない。だからこそ全てのクリエイターは創作物の出来栄えに責任を負い、人生を賭けている。わずか4年で見違えるほど廃れていったムサニにはアニメを創り続ける難しさを象徴する、ファンタジーに逃げるわけにはいかない業界のリアルが投影されている。

 そんなムサニの惨状を受け、宮森あおいの心からアニメへの情熱は失われていった。どんな屈強にも負けず、業界の大物へも怯まずに会いに行く猪突猛進さに溢れたムサニのエースの、その心がポッキリと折れてしまっている様子に、何よりファンはショックを受けたはず。アニメ制作のその先、「製作」には様々な利権やお金のアレコレが絡み、一筋縄ではいかない。そんな理不尽によって全てを奪われてしまった宮森は、突如舞い込んだ元請けの劇場アニメ制作に踏み切れないでいる。制作進行からプロデューサーへ、4年を経て重い責任を背負う役職になった彼女の双肩には、会社の存続そのものが圧し掛かる。

 そんな宮森が元請けを引き受けるまでの第1幕に、本作のテーマが詰め込まれている。平岡の言葉を借りるなら「何かをしなければ前に進まない」し、丸川社長が言うところの「さらに若い人達の道標になるように、前に前に進まなきゃ」である。アニメが好きで、アニメを創る人が好きだった、という初期衝動による情熱で修羅場を乗り越えたTVシリーズの着地では、宮森あおいのキャリアはちっとも前に進まない。アニメが好きという気持ちだけでは行き詰ってしまい、好きという気持ちそのものが「呪い」と化すこともあるだろう。そうならないために、何が何でも創り続けるしかない。もがいて汗水流して、自分で自分を奮い立たせながら辛い現実と闘っていく。シビアな割り切りとも取れるが、その境地にたどり着いた彼女の再起に、どこか憧れや救いを感じてしまうオトナ世代もいるだろう。

 続く第2幕、「空中強襲揚陸艦SIVA」制作編では、一度は散り散りになってしまった愛すべきキャラクターたちがアッセンブルする、ファンサービスてんこ盛りのムサニ逆襲劇。TVシリーズのセルフオマージュや引用を散りばめ、かつてのムサニらしい活気を取り戻す様は、これまでの鬱屈とした空気を取っ払うエナジーに満ちている。残された期間はわずか、人員も十分とは言えない。それでも、情熱と技術に溢れるクリエイターたちが集まることで少しずつ作品が形作られていく。『SHIROBAKO』らしい面白さがようやく芽吹きだし、作品のテンションも上り坂へ。

 そして意外なことに、もう一人の主役と呼んで差支えないほどにスポットが当てられたのは遠藤亮介。「タイマス」に人一倍入れ込んでいた彼も宮森同様に情熱を失ってしまった人であり、その上ローンを抱えた家庭を支えるため妻がパートに出ている、という厳しい状況が描かれる。前述の通り、アニメーターは仕事を受けなければ給与は得られず、生活は苦しくなるだろう。それでも復帰に踏み切ることができない弱った遠藤の心に、ライバル(と思っている)である瀬川さんが渇を入れる。ここでも結論は同じだ。「何が何でも、自分でやるしかない」というストレートなメッセージを、本作は再度投げかけてくる。

 アニメ現場を知る者が、というよりは創作の苦しみを知る人物が手掛けるアニメだからこそ胸を張って言えるのであろうが、クリエイターというお仕事は常に創造と向き合っていなければ、報われないものなのだろう。それは経済的な面しかり、自分との折り合いについても。意気消沈した木下監督も遠藤もそうであったように、彼らが再起するのは「製作」の現場に舞い戻ることでしか実現しない。創作で負った傷は創作の成功で上書きするしかなく、そのためにどのクリエイターももがきながら、懸命に前に進み続けている。その努力の集積があるからこそ、我々は「アニメーション」を楽しむことができる。目の前の大スクリーンに広がる映像も耳に届く音響も、その全てが血の通ったものであると感じられたのは、『SHIROBAKO』を観たからこそだ。

 奮闘するクリエイターたちの闘いは留まるところを知らず。ダビングを終え完成したかに見えた「空中強襲揚陸艦SIVA」だが、宮森と木下監督はクライマックスに納得がいっておらず、ムサニスタッフも同じ思いを抱えていた。公開まであと三週間。作品のクオリティと確実な納品、その天秤で揺れる宮森と木下は、クライマックスのリテイクを決断する。作品が完成しなければ、ムサニは信用を失い今度こそ失墜する。そのリスクを背負ってでも、もっと良いものを目指し続けるムサニの制作陣。

 大胆なことに本作は、そのリテイクされた「空中強襲揚陸艦SIVA」のラストバトルからエンドロールへ接続し、物語は一旦幕を閉じる。これまでの『SHIROBAKO』であれば、その三週間の修羅場こそラストの盛り上がりだったはずだ。しかし本作ではそのシーンは描かれず、木下監督の思い描く通りの映像が劇場で流れる「結果」だけを見せられる。一度は尻すぼみに感じてしまったが、読み違えたのはこちらのほうだった。ムサニの愛すべきキャラクターたちの紆余曲折を描くのではなく、純粋なアニメの質だけを披露し、その裏に隠されたドラマを観客に想像させる方を選んだ、と受け取るべきだろう。それは『SHIROBAKO』ファンに対する作り手の信頼であり、ここで流されたバトルシーンの映像そのものが創り手にとっての血と汗と涙と努力の結晶であるというメッセージの、何よりの「証明」となる。台詞や描写で語ることなく理解(わか)らせることを可能とする、圧巻のクライマックス。ボロボロになっても諦めずに敵に立ち向かっていった「空中強襲揚陸艦SIVA」のキャラクターたちは、まるでギリギリの制作進行でも諦めなかったクリエイター全員を象徴するかのよう。アニメ制作の現場は(現実もそうであるように)確かに厳しい。それでももう一度羽ばたくために前に進み続ける。その一筋の希望たる「真・第三飛行少女隊」の文字に、私たちは勇気をもらって劇場を後にするのだ。


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