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どこまでも愚かで無限大に可愛い、それが男の子。『グッド・ボーイズ』

 「『ソーセージパーティー』の製作陣が贈る」という対象者を絞り切った宣伝文句が逆に潔いコメディ映画『グッド・ボーイズ』は、たとえメインキャストがいたいけな少年少女であってもその下世話すぎる感性を緩ませることなく、結果として本国アメリカでは過激な表現によりR指定作品となり、主役を演じた3人の子役たちは映画を観ることが叶わなかったというとてつもない逸話を残した。そんなものを一体どうやってオススメしたものかと迷いながら鑑賞したものの、スクリーンを後にする頃には爽やかな涙が一筋頬を伝い、少年時代に経験した小さな冒険や、異性への興味の芽生えなどのアレコレを思い出さずにはいられなくなった。本作は露悪的な下ネタ映画という側面だけではない、ということはなんとしてもお伝えしなければならない。

 小学6年生のマックス、ルーカス、ソーの三人組は、同級生の女子たちから「初キス・パーティー」に誘われる。とくにマックスは気になっている女子がパーティに参加すると知り、興味津々。しかし、キスの経験が全くない彼らは、なんとかしてキスの仕方を知ろうと奮闘する中、とある事件にてマックスの父親の仕事道具であるドローンを壊してしまう。父親が出張から帰ってくるまでに、新しいドローンを手に入れられるのか!?パーティに間に合うのか!?初キッスを果たせるのか!?!?

 あらすじこそ至って爽やかなティーンムービーだが、開始数分で本作は「お子様お断り」な姿勢を見せつけてくる。今やどの家庭にもインターネットが存在する現在、子どもたちが性の知識を得る入り口もやはりインターネット。キスの仕方を知ろうと「ポルノ」で検索をかけた三人組は、「大人の情事」の光景を目にして、完全に引いてしまう。性に対し興味を持ちながらも、その実態を受け入れられず困惑し翻弄される。そんなお年頃の男の子たちが主役であるからこそ、誤った知識から繰り出される突拍子もない行動や台詞の一つ一つが面白可笑しく、劇場は何度も笑いに包まれていた。

 本作は、そんな男の子たちの「貴重な時間」を愛でるものである。性に対する興味はあれど、せいぜいキス止まりで、セックスなんて未知の世界。ただし人間は「知らない状態」には戻せないため、そのあどけなさは小学6年生のこの瞬間にしか保つことができない。彼らが中学生に上がって、保健体育の授業やインターネットで性の真実を知ってしまったら、こんなにも微笑ましい冒険譚はあり得なかったに違いない。

 念のため、未鑑賞者のためにどの程度の下ネタが含まれるのかの一例を下記しておくと
・ア〇ルビ〇ズを「太いネックレス」と勘違いする
・ダッチワイフでキスの練習
などのもので、直接的な性行為の描写はほとんど含まれない。

 性の知識の浅薄と同様に、青春というものも期間限定で儚いものだ。マックスら三人は「ビーンバッグ・ボーイズ」を名乗り、一生の友情を誓い合った幼馴染たち。だが、彼らはそれぞれに事情を抱えており、発達していく自意識も相まって少しずつズレが生じてくる。

 マックスは異性への興味が湧き始めたばかりの男の子。よりクールになりたいという欲求を募らせながら、実際にはどう振舞ってよいかわからず、幼馴染との心地よい関係性から外に出ようとしない。

 ルーカスは正直であることを美徳とし、嘘をつくことを許せないタイプ。それゆえに大人からどう見られるかを意識しすぎて、融通の利かなさでトラブルを引き寄せてしまう(それが笑いに繋がる)。その一方で、家庭にとある問題を抱えており、その悩みが頭から離れない模様。

 ソーは「マッチョであること」を求められる男の子社会に適応しようと奮闘しつつも、いざとなると弱気になってしまい人気グループに属することができなかった。その上、天使の美声を持ち合わせながら「ダサい」と言われればすぐに歌唱の道を諦めてしまうなど、周りからの視線に敏感になっている。

 そんな三人が、マックスの初キスからドローン調達までを応援する形でドタバタ珍道中を巻き起こし、本人たちすら予想しえなかった事態に発展するのが本作『グッド・ボーイズ』の見どころだが、そこには一抹の切なささえ感じられる。ドローン調達のために彼らは(無意識的に)法を犯すことでルーカスは正しさから逸脱し、ソーはマックスのように勇気を振り絞れなかった自分と対面してしまう。永遠を誓い合った仲間が、時には障害となったり、劣等感を感じさせる要因になることもある。成長する過程で「なりたいもの」「貫きたいもの」がそれぞれに芽生えてきて、三人はやがて違う道を歩むかもしれない。その予感を孕みながら、ビーンバッグ・ボーイズはどんどん進んでいく。すべては、あの子とのキスと父親に怒られないために…!!

 そう、全てのモチベーションは「父親にドローンを勝手に持ち出して壊したことを悟られないため」にすり替わっていくところに、なんとも可愛らしさを感じずにはいられないのだ。

 男の子という生き物は、常に格好つけたがりなのだ。クラスメイトから格好いいと思われたい、ダサい奴のレッテルは貼られたくない。だからこそ、背伸びしてビールを飲んだり、知らないことにもとりあえず「わかっているふり」をしてしまう。ついつい見栄を張ってしまう。

 その一方、両親や先生といった「大人」の視線を感じると、すぐさまビビってしまう。どんなに粋がったところで、大人に怒られるのは嫌で、怖いのだ。だから適当なウソをついたり、すぐに洗いざらい喋ってしまう。三人いれば怖くないさ!と悪事を働いても、父親がもうすぐ帰ってくるとなれば動揺し、泣き叫ぶ。どうしようもない生き物なのだ、男の子というものは。

 その生態を余すことなくフィルムに焼き付けた制作陣の「わかっている感」に成人男子は悶絶し、大人のお姉さんは苦笑する。劇場に流れる暖かい雰囲気は、幼さゆえの暴走を見守る大人たちの優しい視線あってこそ。ズッコケ三人組の若さゆえの過ちを、どうか大目に見てあげてほしい。

以下、ネタバレ注意

 本作が下世話なパッケージの底に隠した誠実さとは、性との向き合い方の、その結末にあると考える。ある意味、ルーカスが冒頭に答えを出していたのだ。「(キスをするなら)許可をもらわないと」だ。

 クライマックス、少年らの暴走を見守っていた観客=大人たちが、実は自分たちの至らなさに気づかされる。性を巡る諸問題は、明るみになるもの/ならないものを含めて数えきれないほどにあるだろう。立場を利用して関係を迫ったり、痴漢などの直接的な性暴力も残念ながら後を絶たない。本来であれば「許可なく異性の身体に触れてはならない」と習ったはずなのに、それを守れていないのは大人たちのほうだ。

 マックスたちは確かに倫理を犯した。父親との約束を破り、ドラッグ売買の片棒を担ぎ、交通事故を招いた。それでも、作中誰よりも正しさを示したのは小学6年生の子どもたちだった。「キスしていいかな?」その言葉は、相手を尊重するための意志表示であり、思いやりであり、これまでハリウッド映画が「クール」と持て囃してきた描写への痛烈なカウンターである。その眩しすぎる正しさを、さらなる下ネタで被せる締めくくりが、かえって「上品」に感じさせる秀逸なエンディングに膝を打った。


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