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『イコライザー THE FINAL』を観てマッコールさんの幸せを願う。

 『2』が製作されただけでも驚きだったのに、三作目ともなればアントワーン・フークア監督やデンゼル・ワシントン兄貴にもかなりの手応えと愛着があったのであろう、みんな大好きロバート・マッコール。ここまで来るとお盆と正月にしか会わない、やけに優しくてお母さんに内緒でお小遣いをくれる親戚のおじさん、くらいの親しみがある。ただ、この親戚のおじさんの前では絶対に悪いことをしてはならないと、映画を観た誰もが教訓を得るだろう。闇に紛れこの世の悪を成敗する凶悪な夜回り先生の、最後の授業が始まる―。

 今日も今日とて裁くべき悪をやや過剰にこらしめたマッコールさん。薬物売買に関わる組織を一網打尽にするが、殺した男の幼い息子に撃たれ、傷を負い倒れてしまう。あのマッコールが子どもの銃撃を防ぎきれなかったのは、油断かそれとも老いなのか。三日間眠り続けた後に目覚めたマッコールさんは、シチリアの街で一時の平穏を得て、そこに住む心優しい住人たちとの交流を通して、安らぎを得る。そして同時に思うのだ、「自分のやってきたことは善なのか?」と。

 『イコライザー』シリーズと『マグニフィセント・セブン』には、わかりやすい勧善懲悪の物語があった。夢を抱く若者や平和に暮らしたい砂漠の民を搾取する者がいて、得てしてそいつらは残虐で人の心がないので、殺すしかない!と観客もデンゼル兄貴も重々納得した上で成敗される。この世界には影で闘うヒーローがいて、弱きに手を差し伸べる優しい人間がいる。このシリーズは、そんな希望を信じさせてくれた。だが三作目たる本作では、暴力が生む結果に苦悩し、身体と心に癒えぬ傷を追ったマッコールさんの姿が描かれる。

 今作の暴力表現は、過去二作よりもハードなものになっている。映画の中において暴力が過剰になっていくのは通常なら加点要素だが、『イコライザー』はそこに自省の念を込めたようだ。ロバート・マッコールという一度稼働すれば止まらない暴力装置が本当にいるとすれば、人間の身体にたくさん穴が空き、惨たらしい死体が残るだけ。冒頭のワイン園の地獄絵図を眺める際、死んだ男の傷口にカメラが寄ったのは、そういうことなのだ。

 暴力はエスカレートしていき、それは別の悲劇を生む。マッコールさんはマフィアに痛みと恐怖で敵を返り討ちにするが、これは彼らがシチリアの街の人々に行ってきた仕打ちと、何が変わらないというのだろう。このシリーズを好んで観るような観客に冷水をぶっかけるような仕打ちであり、タイトルロールが過去の作品に植え付けられたイメージにカウンターを仕掛ける構図は、『ランボー 最後の戦場』を彷彿とさせる。

 かくも現実は白黒つけがたく、自らの行いには反省と後悔がつきまとってくる。だが、ここまで述べてきたことと反するが、やはりどうしても「殺さなきゃなんねぇ悪」は存在する、してしまうのだ。重苦しい展開と酷い目に合わされ続けるシチリア市民の姿を観て溜まったフラストレーションを昇華させてくれるのもまた、マッコールさんなのだ。

 マッコールさんを暖かく迎えてくれたシチリアの民を、大型リゾートカジノ建設のために人死も厭わない凶悪な取り立てをするイタリアンマフィアの皆様。彼らはいきなり街にやってきた黒人の大男のことを何も知らないのでちょっかいを出し、倍返しされる。観客は「ほら言わんこっちゃない」と腕を組んで得意げな顔をする。もはや伝統芸、いよっイコライザー流。奴らはマッコールさんを助けた警官を、優しくしてくれた魚屋のおっちゃんを傷つけたばっかりに、自分を殺した相手の顔を目に焼き付けながら死んでいく羽目になる。マッコールさんが暴れればマフィアが壊滅するのも日常茶飯事なので、起きている出来事の凄惨さに比べ観客の心は妙に落ち着いているのも、『イコライザー』ならでは。

 ここで『ジョン・ウィック』なら最強の刺客としてドニー・イェンが立ち塞がるだけだが、今作の敵はちょっとばかし銃をたくさん持っている程度のマフィアで、過去二作と比べても格が低いし、ハッキリ言って弱い。だが、それがいいのだ。金持ってるだけのチンピラが、元米国工作員のデンゼル・ワシントンに敵うわけもなく、あっという間に屋敷は死体箱に変わり、ボスは惨たらしく自らが撒いたドラッグで中毒死する。呆気なさ過ぎて拍子抜けするかもしれないが、トゥーマッチ感が魅力の『ジョン・ウィック』とも差別化できているし、過度にスケールを大きくしない姿勢はマッコールさんの内省的な物語ともマッチしていて、“過不足なく“という言葉がこれほどハマる映画も中々お目にかかれない。

※以下、本作のネタバレを含む

 先程からずっとマッコール“さん”と呼んでいる本noteだが、やはり私はロバート・マッコールという男と、もちろんデンゼル・ワシントンという俳優のことが、大好きなのだ。一作目のヒロイン・テリー(アリーナ)が、深夜のダイナーにマッコールを訪ねて来る理由に挙げた「穏やかな声が聴きたくて」という言葉が、実によく染みる。夢を持って挑戦する者、虐げられ苦しんでいる人に手を差し伸べて、自分が変わる手助けをしてくれる。暴力マシーンと同居しているのが不思議なくらい柔和で優しい顔をしたロバート・マッコールを完璧に演じられるのは、当たり前だがデンゼル・ワシントンしかいない。彼とこの役が出会って『イコライザー』という映画を三作も楽しめたことに、感謝している。

(余談だが、『イコライザー』シリーズにおけるデンゼル・ワシントンの吹替はみんな大好き大塚明夫氏。“穏やかな声”である)

 ゆえに、本作を観ながら、ずっと涙が止まらなかった。マッコールさんが徐々に街の人々に受け入れられ、愛されていき、後半では彼らがマッコールさんを助けるためにマフィアに立ち向かう。マッコールさんはスマホで動画を撮られたことで闇の仕置人としての生き方を剥ぎ取られたかわりに、安住の地を得られたのだ。マッコールさんもここでようやく、骨を埋める決心をしたのだろう。「明日殺しにくるぜ」と息巻いたマフィアたちを今夜中に解体するマッコールさんの仕事の速さは、暗闇を引き裂く花火のように人々に光をもたらした。

 クライマックス、もしかして人知れず街を去るのでは……?と思わせておいて、いつものカフェで紅茶を嗜む姿に、安堵した。ロバート・マッコールは街の守護神として、優しいおじさんとして、そこで暮らすことを許され受け入れられた。かつてないほどキラキラした笑顔を見せ、神経質の象徴であるマイスプーンを忘れるほどに人々との触れ合いに幸せを見出すマッコールさん。全編血なまぐさい映画ではあったが、ここだけは本当に穏やかで、優しい気持ちに浸ることができた。

 暴力の連鎖という意味では、冒頭で父を失った子どもがいて、マッコールさんも報いを受けなければ釣り合わないかもしれない。ただ、今だけは、彼が救ってきた魂の数に見合う時間だけは、幸せを噛み締めていてほしい。ロバート・マッコールは大好きだが、もう続編は望まない。彼が遠いイタリアの地で静かに暮らしていることを思いながら、紅茶を啜ることにしよう。

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