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かくも愚かしき人という生き物。『オッペンハイマー』

 『オッペンハイマー』を観た。観てしまった、という気持ちで頭がいっぱいになってしまっている。日本での公開が遅れた理由も、本編を観た今ならわかるというか、配給事情について無責任な心情を抱いてしまったことに反省するばかりである。

 『オッペンハイマー』、センシティブな題材ゆえにこの言葉を当てはめるのが正しいかは今なお悩ましいけれど、一個人の身勝手な感想としては非常に面白かった。伝記モノかつ三時間の長尺という事前のハードルの高さに反して、物語の大きな縦軸はオッペンハイマー本人とルイス・ストローズの二名に絞って展開され、ルドウィグ・ゴランソンの劇伴が一息つくことを許してはくれず、観客の意識を常に高い緊張感で銀幕に縛り付ける。

 事前にある程度の予習をして臨んだことも事実だが、それにしてもこの驚異的な面白さは何なのだろう。史実ゆえに結果がわかりきっているにもかかわらず、どうか失敗してくれと祈ってしまった「トリニティ」の、おぞましすぎるスペクタクル。その日を境に世界を不可逆的に変化させてしまった人々の、愚かしくも普遍的な心の動き。あそこにいるのは極悪な世界の破壊者などではなく、世界はわかりやすい勧善懲悪になど染まりはしない。あるのはただ、大量殺戮兵器を造ったという事実に対して飲み込みやすい「着地」を選んだ、無数の人々の集合体こそが人間である、という事実だけだ。

 映画の後半、ロス・アラモスで原子爆弾の製造に携わった人々が、広島・長崎への投下を後日になって知り、爆心地で撮られたであろう写真を見て、思わず目を伏せてしまう、というシーンが描かれている。本作については事前に「原爆の被害が真に描かれていない」という反応が寄せられており、その通りだと思う一面もあれど、私はこのシーンにこそ全てが詰まっているような気がしている。目の前の惨状から目を背け、意識から追い出そうとする心理的な働きは、私にも覚えがあった。

 まだ小学生時代、夏休みに一日だけ登校して平和学習を受ける機会があった際、上映されるビデオがアニメから実写へと変わる境目があった。あれが小学3年生だったか4年生だったかは思い出せないが、とにかく衝撃的だった。絵として、知識として知っていたものが、急に「現実」となって頭にインプットされる。肌が溶けたように焼け、ケロイド状になってしまった人。目が見えなかったり、あるいは眼球が無くなったりしてしまった人。親を失い、泣き叫ぶ子ども。照明を落とした視聴覚室は、同級生の泣き声で阿鼻叫喚だった。それ以上の地獄が、数十年前にこの国で起こっていた。私はというと、ただただ目を閉じ顔を伏せ、授業が終わるのをひたすら待ち続けた。授業が終わり、迎えに来てくれた祖母を前に、私は何も言えなかった。

 それと同じことが、あのシーンの中で、そして現実のアメリカで起きていたのだと思う。自分たちの製造物が一体何をもたらしたのか。その悲惨な結果を提示されて、しかし何を思ったのかは、個々人によるだろう。自分が大量殺戮の片棒を握ったという現実に打ちのめされ、その日から地獄が始まった人もいるだろう。責任は軍人や政府にあるといい、自分の重荷にしなかった人もいるだろう。そしてそれは、おそらくどちらも、正しい。人間ってそういうものだから。

 そもそも、「原爆の父」として矢面に立ったオッペンハイマー本人が、大量に「矛盾」を抱えた人物である。倫理的に許されないと知りながら、リンゴに毒物を混ぜたり、いけないと知りつつ不倫を繰り返したり(しかも取返しのつかない事態になればメソメソ泣き出す)と、映画は彼を科学の探究者や殉教者のような「無垢」な人間として描こうとはしていない。その矛盾は日を追うごとに大きくなり、ヒトラーの死によって当初の目的を失いながらも止まれなかった原爆の研究と製造は、世界を決定的に変えてしまう。そのことに胸を痛めながらも、今度は原爆の使用が戦争の早期終了を促した―しかしその後世界は軍拡競争に突き進んでいってしまう―というアメリカが掲げるさらに大きな矛盾によって、オッペンハイマーの懸念は世界を動かすことはできなかった。彼は人類社会を燃やし尽くす大いなる火の導火線を整備して、しかしそのコントロールが自分の手を離れてしまったことに絶望し、その恐怖を永遠に抱いたまま映画はエンドロールに至る。終わることのない罪悪感の煉獄に囚われた一人の男はしかし、偉大であると同時に弱くて脆い、一人の人間であったのだ。

 本作がJ・ロバート・オッペンハイマーという実在の人間の半生を描くものであれば、当然「原爆」という要素は欠かせないし、今なお世界が(さらに破壊力を増した)核兵器を保持しボタン一つで大量虐殺を現実のものと出来てしまう現代において、そのことに警鐘を鳴らす作品であるのは間違いない。ただ、作品の焦点は原子爆弾が造られたことやその被害についてではなく、オッペンハイマー一個人のミクロな心情と、それに付随するたくさんの関連人物の人生であり、ひいては「人間」というものが不可避的に持っている保身だったり愚かさだったり、そういった心の働きを浮き彫りにしてしまったように感じ取られた。

 何せ、映画後半の主な舞台となる聴聞会に至る経緯はストローズからオッペンハイマーへの私怨が発端であり、原水爆の使用に関する倫理的な是非などは主題として争われてはいない。オッペンハイマーは無謀にも闘うが、彼自身の過去の政治的活動や、乱れた女性関係が足を引っ張り、今の夫婦環境は聴聞会の横暴な態度によって無茶苦茶にされてしまう。かつての共同研究者たちは、オッペンハイマーを守る者もいれば、手のひらを返し去る者もいる。精錬潔癖な人間もいない、正当で公平な話し合いも望めない。そんな不条理な世界の仕組みに加担して原水爆を発明した彼を戦下の英雄と祭り上げた民衆は、彼を守るなんてこともしない。誰もが他人事で、無責任だ。

 そのことをまるで神の視点から俯瞰したかのようにオッペンハイマーに語る、アインシュタインとの対話が実に恐ろしい。まるで何事もなかったかのように、世界はオッペンハイマーたち科学者の功績を褒めたたえるだろう、世界的な発明を成し遂げた偉人だと自慢をするだろう。しかしそれは、自分たちが赦されたいからだ、と。天才アインシュタインは、人間が愚かであることを知りながら、その後の世界を予見する。しかしそれを受けるオッペンハイマーにとって、未来とは大量の核兵器が地球を焼き尽くす、そんなビジョンに埋め尽くされていた。彼の中で世界は、もう終わりを迎えていた。そんな世界に赦されたとて、何の意味があるというのか。

 波紋が広がる湖に終わりゆく世界を投影するオッペンハイマー。諭す言葉を失い、その場を去るアインシュタイン。彼に無視をされたことで劣等感を強めていくストローズ。一つの発明が連鎖反応を起こし、人の運命も、やがては世界そのものを破壊していく。そのきっかけが自分にあったのだと知ったオッペンハイマーの頭の中の地獄は、一体どれほど深いのだろう。

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