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イニシエーションの「呪い」VSスパイダーマン。『アクロス・ザ・スパイダーバース』

 本noteは、『スパイダーマン アクロス・ザ・スパイダーバース』の極めて個人的な感想文である。がしかし、本題に入る前にどうしても、過去のスパイダーマン映画について、触れなければならない。

OK じゃあかいつまんで説明するね!

 日本ではアメコミ文化の顔として根強い人気を誇るスパイダーマン。その人気の火付け役となったのは、サム・ライミ版から今に至るまで脈々と受け継がれている実写映画であることは言うまでもないだろうが、それにしてもこんなに短い期間でリブートを繰り返すことになるとは、思いもしなかった。

 あの『アメイジング・スパイダーマン』が公開されたのは2012年で、『スパイダーマン3』からわずか5年しか経っていないし、「またベンおじさんが死ぬところを見せられるのか」という感想を見かけたことも一度や二度ではなかった。マーク・ウェブが手掛ける新シリーズもまた、まるでそれがお約束であるかのように、ピーター・パーカーにとって大切な家族が犠牲になり、大いなる力には大いなる責任が伴うことを学ぶ。続く二作目のラストでもう一つの巨大な喪失を経験したアンドリュー・ガーフィールド演じるピーターの復活劇には涙させられたが、『3』とシニスター・シックスのスピンオフの話はいつしか消え失せ、今度はMCUという巨大な枠組みの中で我々は新しいスパイディと出会った。

 これまでと比べて最も幼く、最も明るいテンションで始まったトム・ホランドのスパイダーマン。ところが、蜘蛛の糸は決して彼を見逃すことはなく、サノスとの闘いでは愛する師が命を散らし、次にメイおばさんが犠牲になった。スパイダーマンには、いつだって「喪失」がセットになっていて、その重力からは逃れられなかった。『ノー・ウェイ・ホーム』とは、誰もが夢見た「あんなこといいな できたらいいな」が叶う奇跡のフィルムであり、同時にトム・ホランドのピーター・パーカーをスパイダーマンにするためにイニシエーションを課す「呪い」でもあったのだ。

 もちろん、アメコミというのは原作の数だけ、あるいは作者の数だけ解釈があり、歴史がある。スパイダーマンと愛する人の死はセットだよね!と十把一絡げに語られると「イヤイヤそれは」と返したくもなる有識者もおられるはずである。あくまでこれは「映画におけるスパイダーマンってこうだよね」というレベルの話として、受け止めていただきたい。

 で、ここまでの長ったらしい前置きがなぜ必要なのかと問われたら、本作『スパイダーマン アクロス・ザ・スパイダーバース』という映画は「スパイダーマンと愛する人の死はセットだよね!」とまるごとテーマにしてしまった、ある種の問題作であるからだ。

※以下、本作のネタバレを含む

 冒頭、グウェン・ステイシーの日常を通じて語られるのは、スパイダーマン(ひいてはヒーロー全体)が通ることになる「理解者がいない問題」である。人知れず悪と闘い、しかし仲間や家族にはその苦しみを打ち明けられない。日常生活はままならず、他人とうまく“バンド”を築けないグウェンだが、実は彼女も「喪失」を経験していたことが明かされた。前作においてマイルスの世界に放り込まれる前に、彼女は“その世界の”ピーター・パーカーを目の前で失っているのである。さらに、彼女はピーター殺害の容疑者として、警官である実の父に追われるという二重苦まで背負っているのだ。

 移り変わってマイルスの日常。彼を悩ませているのは「自分の人生とスパイダーマン家業の両立」であり、自分のライフステージに関わる出来事があってもスパイダーセンスが働けばすぐに出動しなければならない、そんな日々に疲弊しているようだ。奇しくも同じく二作目のサム・ライミ版『2』でも描かれた通り、スパイダーマンも完全無欠の神というわけではなく、恋の成就や単位の取得に奔走する一人の青年であり、ヒーローであり続けることは時に重圧になりうるのだ。

 グウェンとマイルス。この二人が置かれた状況に対し、その悩みを打ち明けられるのはスパイダーマンであるお互いだけだ。これは『ノー・ウェイ・ホーム』で描かれた通り、スパイダーマンの真の理解者とは同じスパイダーマンである、という図式を彷彿とさせる。彼らはか弱い人間であり、涙を隠すためにマスクを被り、ユーモアたっぷりに口を紡いでヴィランに立ち向かう。その心の痛みを和らげるのは、同業者たるスパイダーマンとの関わりなのだ。かくして、本作は「ノー・ウェイ・ホーム以降のスパイダーマン映画」の立場を表明する。媒体も属するユニバースも微妙に異なるのに、スパイダーマン映画の踏まえてきた文脈とは切り離して語れないあたり、実は高いリテラシーを要求する映画だったりする今作。

 「ノー・ウェイ・ホーム以降のスパイダーマン映画」をさらに補強するのが、スパイダー・ソサエティ(スパイダーマンだらけの空間の描写がマジで最高)の長にして実質的なヴィランも担うミゲル・オハラというキャラクター。彼もまた元いた世界で喪失を経験しており、加速器によるマルチバースへの行き来が可能になって以降は、“その世界”の自分の死に乗じて成り代わり、別世界の妻と子どもの前で同一人物として振る舞っていたが、結果として二度目の喪失を経験するという、かなり過酷な経緯を持つ人物である。

 ゆえに、スパイダーマンは大切な人の死を乗り越えてきた存在であるとし、たとえ救えたはずの誰かの死を「救ってはならなかった」と言い切ってしまうオハラは、マルチバースの秩序を守るために人間としての情を切り離してしまった。まさに、「スパイダーマンと愛する人の死はセットだよね!」が服を着て関智一の声で話しているような人物が、二度目の喪失を目前に控えるマイルスと敵対するのである。一人の命と宇宙の秩序とを天秤にかけ、幼いマイルスに父の死を受け入れろと強要する姿は高潔さから程遠いかもしれないが、彼もまた癒えぬ傷に苦しみ続ける一人の人間であることも確かなのだ。

 そんなオハラの思想に準じるように、各々が誰かの亡骸を抱え、マイルスに秩序を優先せよと言わんばかりに周りを取り囲むスパイダーマンの皆々様の描写は、思い返せばものすごい光景だ。何度も繰り返すが、「スパイダーマンと愛する人の死はセットだよね!」を大勢のスパイダーマンが共有しており、オハラの号令に従って全スパイダーマンがマイルスを追うのである。スパイダーマンの映画でありながらスパイダーマンの没個性化をやってのけ、モブのスパイダーマン(我ながら意味不明な表現だ)たちの中には「ワイと同じ境遇にするのは可哀想やな……」という優しさのある者は一人もいなかったらしい。

 この思い切ったスパイダーマン像の切り取りには、異を唱えたいファンも多いのではなかろうか。むしろ、この物語の最大の敵はスパイダーマンを悲劇のヒーローに仕立て上げたい作り手や、ピーター・パーカーが喪失から立ち上がる物語を観て感涙に浸る我々のようなファンなのかもしれない。

 何にせよ、マイルスが挑むのはスパイダーマンは大切な人を失わなければならないという「呪い」であり、不幸がセットになりつつあるオリジンに一石を投じる試みとして、期待値が上がりきった状態で本作は後編へと続いていく。その最終評価は『ビヨンド』を観るまで定まらないが、人気シリーズが持つ従来の凝り固まったイメージを壊そうとした前例として『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』という映画があり、その鋭い刃のようなチャレンジ精神が次回作でどのように回収されたかは記憶に新しいところだが、もしかしたら次回作は「エピソード8の志を引き継いだエピソード9」になるかもしれない、というワクワクが私の中で鳴り響いている。

 長らく続いた呪いを打ち砕く福音となるのか、大スクリーンでレオパルドンが大活躍を果たすのか。その答えは数年先までお預けということで、またしても死ねない理由が増えたことが、今は大収穫だ。

 あと、「アース199999のドクター・ストレンジ」がこの世界でも悪名名高いことが判明するシーン、場内に爆笑が起こったことは、忘れずに書いておこう。

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