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人の闇を映すアート『ザ・スクエア 思いやりの聖域』

現代アート美術館のキュレーター(展示の企画運営に携わる学芸員)であるクリスティアンが手掛ける新たな展示会の目玉は、「ザ・スクエア」と呼ばれる正方形の聖域。この空間の中では全ての人々は平等に扱われ、助け合わなくてはならない。そんな利他主義を訴える展示会のPRのため、宣伝会社とも日々調整を重ねていた。しかし、スリに携帯電話と財布を盗まれたクリスティアンは、盗まれた物を取り返すためにとったある行動をきっかけに、全ての歯車を狂わせてしまう。

 第70回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した本作は、人々の心に潜む差別意識や欺瞞といった、誰もが普遍的に持つ愚かしさを炙り出す、意地悪な作品だ。芸術作品の意図がどれだけ高尚であっても、それに関わる人間がそれに相応しい心の持ち主か、試されているように錯覚してしまう。

 「ザ・スクエア」とは、言ってしまえば地面に正方形を描いただけの、何ら意味を持たない線引きでしかない。そこに作者が“意味”を加え、一つの作品へと昇華させる。その空間の中では人々は平等で、公平に扱われる権利を有する。現代社会に蔓延る差別や貧富の格差を浮き彫りにし、それらから切り離された空間を演出することで、その線引きは“聖域”となる。人と人が助け合い、他者を気遣う心を呼び覚ます。人間社会の本来あるべき理想の姿を描くことで作品が完成する参加型アートこそ、この聖域の正体であろう。

 一方のクリスティアンだが、ハンサムで学術知識に富んだ上品な男性ではあるが、言葉や態度からは、差別的で傲慢な一面が透けて見える。面白いことに、「ザ・スクエア」のテーマとは正反対の性格の持ち主であることが、作中何度も強調される。事の発端となったスリ事件に対しても最初は傍観を決め込んだり、後半に自撮りすることになる“謝罪動画”などがいい証拠で、格差社会の枠組みを通じて他者を眺めている、そんな男である。そもそも、作品のテーマにもっと真摯であるのなら、街中にいる物乞いやホームレスに我先に手を差し伸べるはずなのだ。

 本作はクリスティアンを初めとして、「ザ・スクエア」に関わる様々な人間の中に眠る差別意識を浮き彫りにし、観客を挑発する。そして、ある小さなきっかけが取り返しのつかない事態に発展するまでを、じっくりと追い詰めるように描いていく。リユーベン・オストルンド監督の作家性全開と言ってもいいだろう。

 監督の前作『フレンチアルプスで起きたこと』は、雪山にスキー旅行にやってきたある家族が雪崩に遭遇し、その際の父親のある行動が「理想的な父親像」をはぎ取り、家族崩壊の危機に発展するまでを描くブラックコメディ。自然災害との遭遇という不可抗力の場であれ、本能的に選び取った行動が他者からは裏切りに見えてしまう。そんな人間のどうしようもない一面を描き、最初こそ笑っていられたがラストは背筋が凍る、大変興味深い一作だった。

 それを踏まえての本作では、展示を世間に注目させるためのPR動画が炎上し、非難を浴びる展開が用意されている。その内容も思いやりや助け合いとは正反対の過激なもので、SNSでバズればそれでよし、の精神が大変な事態を招いてしまう。注目を浴びようと非常識な内容の投稿を、しかも罪の意識が無く(身の周りの知り合いしか見ないものと思い込んで)行ってしまう若者のニュースが数年前話題になった。現代を生きる我々は時として、周囲への迷惑を省みずそうした行動を取り、他者への無関心・無配慮を晒してしまう。本作が警鐘を鳴らしているのは、何も作中の人物に限ったものではない、ということだ。

 平等、思いやり、信頼、協調。そうした理念を声高に叫ぶには、それ相応の責任が伴うものである。特に、誰もがネットで発言できる現代、主張の綻びや矛盾はすぐに見抜かれてしまう。そう思うと、「思いやりの聖域」とは我々人間には早すぎた代物だったのかもしれない。何の変哲もない正方形が、無意識に潜む他者への攻撃性を暴きだし、やがて大切なものを失ってしまう。寓話としては強烈で、普遍的故に刺さると痛い。ゆえに気軽に薦められる作品ではないが、学ぶものは多い、という無責任な一文で締めさせていただこう。

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劇場に設けられた、作中と全く同じ内容の“聖域”。挑発的な内容に、ゾクゾクさせられる。

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