第1452回 受け入れる側と送り出す側

1、読書記録339

今回ご紹介するのはこちら。

一條三子2017『学童集団疎開――受入れ地域から考える』 (岩波現代全書)

我が町も取材対象になっていたことをうかがって気になっていましたが

ようやく目を通すことができましたのでご紹介します。

2、建前と現実

本書は埼玉県の滑川高校の教員だった著者が

郷土部の活動として地域の歴史を調べていくうちにたどり着いた、

という疑問が出発点になっています。

それは戦時中に建設された地下軍事施設と学童疎開の子ども達の学寮が近接していたことに現代の生徒達が気付いたこと。

若者達の疑問に答えるため、著者は大きなテーマに挑んでいきます。

副題は「受け入れ地域から考える」となっていましたが

この分野に疎く、初学者とも言える私にとっては

体制側の都合、戦況の悪化に伴って、現場の事情に疎い指導者たちが迷走している様子も史料に裏付けられた丁寧な解説があり、大変わかりやすく感じました。

主体となる埼玉県への疎開については本書を読んでいただくとして、

私自身の問題意識となる、宮城県への学童疎開についての部分だけ、

備忘録的に整理してみようと思います。

当初は疎開児童の家族を安心させるために「なるべく近い土地へ」が原則であったのに、次第に東北や北陸地方に沢山疎開させる方針へと一転されています。

その理由はもっと戦況が悪化したとき、非常事態発生の場合における待避先として関東近県を確保しておきたかったから、と当時の新聞報道から読み解いています。

東京都心は当時35の区に分かれており、浅草区と小石川区が宮城県に割り当てられています。

その理由は「浅草区の区長が宮城県知事と親しかったから」という証言も紹介されています。

当時の宮城県知事は丸山鶴吉、浅草区長は須田詮造という人物です。

この説が妥当なのか、二人にどのようなつながりがあるのか、今後調べていきたいと思います。

でもそんな個人の縁故でいいんでしょうかね。

疎開受け入れ先ではオーバーに歓迎行事を行い、疎開児童の心を慰めるように、という趣旨のお達しがあり、地元が振り回されている様子がうかがえますが、

今も昔も変わらないですね、というのが正直な感想。

宮城県では北の鳴子温泉に小石川区の学童が、

南の蔵王や秋保温泉に浅草区の学童が疎開していきました。

さらには長野県からあぶれた杉並区の学校からも疎開がはじまり、

寺院や個人宅などを中心に分散して受け入れてもらったようです。

我が町にも温泉宿だけでなく、団体観光客向けの大食堂を含め、三区の疎開を受けいていました。

そしてまたありがちな「再疎開」

安全な場所として子ども達を受け入れたのに、後から別な施設が疎開してきて追い出されてしまうという非喜劇。

地下に軍事工場が作られ、その工員宿舎としてあてるためだったのを

「海に近くて危険」とか「山の上なので食料品運びに不便」とかもっともらしい理由をつけて県内の別の場所に移されてしまうのです。

県外への再疎開も含めるとなんと45,963人もの学童が、わずか一年足らずで再度移動させられたのは、なんともやりきれない思いです。

3、多面的な事実こそ

本書の終章で著者は

学童疎開の歴史を「昭和の児童受難史」の位置づけだけにとどめておくのはもったいない。

と言います。

これは、高校の教員として若人達が地域の歴史を学ぶ上で、感じたことの「広がり」を見出せたからに他なりません。

受け入れた側の自治体史等にも、疎開者を温かく遇した点ばかりが強調され、疎開を歓迎しなかったり、対応しきれなかった事実とその背景を、それもまた貴重な戦時史の一面として記述している例はほとんどない。

という記述も耳が痛いものです。

我が町に照らしてみればまだ前者の「児童受難史」の域にすら辿り着いていません。

図らずも世は部活動の地域移行を進める方向へと動いています。

このような時こそ「郷土部」のような立場が輝いてくるのではないかと思います。

そのために私ができることはまだまだありそうだ、と感じて本書を閉じました。


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