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コロナ禍、体動かず、それでも帰宅が叶う

前回、母のことを綴り「マガジン」にしてから既に1年以上経ってしまった。マガジンにした意味もないじゃないか…と自分を軽く叱る。

母はあの2か月後に退院して、一旦は老健(老人健康保険施設)に入所した。そしてほどなくして一時帰宅できることになった。しかも2泊3日の外泊である。

実家に戻ってくるのは実に4~5年ぶりとなった。その前の帰宅は特養での外出扱いでほんの2~3時間の滞在だったが、当時の母はまだ笑ったり動いたり、声を出して何かを話したりすることができていた。

たった4年なのに…と昔を振り返るとやっぱり切なくなって涙が出たりする。そして改めて「今」の大切さを思うのだった。振り返る癖をつけてしまうと、将来、私も辛くなりそうだ。

母は病院に入院している間に「胃ろう」を造った。入院先では認知症患者の対応が難しく、流動食もままならなかった母はすぐ経鼻経管栄養となってしまった。母は昔から鼻の骨が曲がっているとかで、胃カメラも鼻からは難しく(これは私も同様)オンライン面会でしか顔を見ることができなかったけれど、いつも苦痛にゆがんだ顔をしていた。それもあって妹と相談し、悩みに悩んで胃ろうを造ることに決めたのだった。母が自分の気持ちを言うことができたなら…何度も何度もそう思った。

自宅に戻ることが決まってから、実際に戻ってくる日まで約1ヶ月。その間、母を迎え入れるための準備を急ピッチで進めることになった。詳しいことは別の機会に譲るとして、一番の難題は「アイテム(おむつのこと)交換」と「胃ろうの栄養剤注入」そして「痰の吸引」の3つ。もちろん、どれもが初めてのことであり胃ろうなど間近で見たこともない。ドキドキを通り越して、しっぽを巻いて逃げたい気分になった。

当時はまだコロナの真っ只中。「練習」はどうするのか疑問に思っていたが、「実際にお母さまに会って直接やってもらいます」と言われ、あっさり母のいる居室へ通され母と対面したのだった。それまで「コロナなので」と一切を拒否されてきただけに、一体何が良くて何がダメなのか? 物事の是非や可否は何を基準にして判断するのか? 正直分からなくなったことを覚えている。

そんなこんな、仕事を休んだり早退したりを繰り返しながら「練習」を重ね、当日を迎えた。その日は母の誕生日。施設の方々にお願いして、その日に合わせて戻れるよう調整してもらった。81回目の誕生日を、母は自宅で孫たちにも囲まれて過ごすことができた。

母は初めこそ、どこぞへ連れて来られたのか不安そうな表情で目をパチクリさせていたけれど、「お母さん、ここは実家だよ」「柿の木とゆずの木のある家だよ」「お帰り」「待ってたよ」と何度もみんなで話しかけていると、突然「わーん」と言って泣き出した。そんな母を見て私はもちろん、一緒に来てくださった施設の職員の方も、ケアマネの方もみんなでじわっと涙目になりながらこれまでの道のりを思った。

その時、その時、記すことができればよかったことがたくさんあった。入院から退院への道、その先をどうするか、何を優先して考えればいいか。母の意思を聞くことができない、妹とも考えが異なることも多々あった。誰に相談すればよいのか、どうすれば良いのか、残された時間はどれだけあるのか、コロナはどうなるのか…。本当に悩んで「苦しいなぁ」と毎日毎日思っていた。

母はあれから気候の良い季節の時は、月に1回程度の帰宅を続けられている。昨年のクリスマスも一緒に過ごすことができ、今年の誕生日も自宅で祝うことができた。

そうした時間を過ごす中で、私の考えも少しずつ変わってきた。考えなければならないことも、その内容が変わってきている。そう自覚できると、今バタバタ考えてもまた何か変わっていくかもしれない…と、少しだけ肝が据わるようにも思うのだった。

そして、また来月、母が帰ってくる。
予定通り帰ってくることができますように。
9月の終わり、中秋の名月を仰ぎ見て祈るのだった。

※写真は昨年のものです。


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