見出し画像

2023、あいもかわらず僕は

お久しぶりです。

いよいよ、自分の本音を書けるのは、
歌詞とnoteくらいになってきた。

昨日バンドメンバー2人で久々に顔を合わせ、最近の話や主におれの相談事をうんうん聞いてもらいつつ、またここから頑張ろう、と話した。

完全にペースがひと売れした後のバンドのそれだが、やめなければきっとチャンスはある。なにより僕は、大切仲間と一生表現していくためにバンドというおもちゃ箱を大切に抱えている。
過度な無理は禁物。でも適度に無理して、自分たちの音楽をまだ出会っていない誰かに届けたい。何度だってそう思うのだ。

閑話休題。

最近、改めてコミュニケーションと理解のことを考えている。以前も一度同じようなことを書いたような気がしているが。

僕はコミュニケーションや理解に対して、絶対に100%相手に伝わることはない、とても非効率的なものだという認識を持っている。だからこそアナログな面白さがあり、"わからない"とか、"理解できない"という状況に陥ったとしても、いろいろな方法でコミュニケーションを諦めないことが何より相手の心を動かし、人と人の間に希望を作っていくのだとそう今でも信じている。

「言葉は穴の空いた 軽い砂袋さ
君まで届ける前に かなりこぼれてしまう」

Base Ball Bear 「今は僕の目を見て」より

Base Ball Bearの「今は僕の目を見て」より抜粋。
絶望してしまうほど、
詩的に、かつ的確に会話や理解の本質を突く言葉があるだろうか。さすがの芸当としか言いようがない。

人間のコミュニケーションのすべては会話から始まる。そして会話は、言葉によってつくられる。
もちろん、言語としては同じものを共有しているものの、言語のニュアンスや語法、言葉にこもる感情は、実際のところ人それぞれ持ち合わせており、その揺らぎこそがその人特有の言葉をつくる。

だから言葉は人それぞれ独特なものを持ち合わせていて、つまりは自分が伝えたかったことが100%で伝わることはまずないし、実際相手に何%伝わっているかも正確には測れない。それがコミュニケーションと言葉の正体だと僕は思っている。そしてコミュニケーションの果てに理解という段階が存在するとしたら、まず100%の理解は不可能、ということだ。(可能だとしても、相当骨の折れる作業だと思う。)

人間にとって一番原始的な他者との理解を促すツールであるコミュニケーションにおいて100%が不可能と思うと、少し絶望的な気持ちにもなる。

でもだからこそ、相手の性格や言葉の揺らぎを理解しながらお互いの言葉(とその背景にある思想)をチューニングしていくのが、コミュニケーションの良さだとも思う。

さらに良さ(人によっては苦痛なのかもしれないが)をよく味わうには、想像力が必要なのだと思う。自分が持っている言葉を言った時、相手がどう思うのか。相手が言った言葉の背景には、どんな意図があるのか。想像力を働かせながら、言葉を慎重かつ大胆に組み立てて伝えていくことが、何より大切なことだと思っている。想像力を働かせることを諦めないこと、その姿勢を相手に伝えていくことが、他者の心を動かしていくのではないかと、
今でもそんな理想論的なことを、本気で信じている。

でも一方で、想像しすぎることは相手の気持ちを決めつけることにつながってしまう。だから想像力を持つことに方法論はなくて、絶えず会話の中で繰り返して、磨いていくしかないのだとも感じる。

僕はこんな風に物事の根底まで潜って考えてしまう癖があるので、すこぶる日常と相性が悪い。日常生活というものは程よく深く考え、ネガティヴは避け、すぐそこにあるポジティブを吸収し言葉を紡いだり、判断することが、何より必要なことだからだ。(これができない自分にだいぶ辟易しているのが最近である)

僕はある意味自分を信じてきた。こうやって根底まだ潜って、納得いくまで考え続ける人間臭さが、自分のアイデンティティだと思ってきた。

でも、今年に入ってそれがコミュニケーションや人間関係で、通用しないことが増えてきた。おしなべて様々な会話において、"わからない"側に自分が行ってしまうことが増えた。

今ここで、そのことへの愚痴や文句を言いたいわけではない。(そもそも別にそのこと自体に文句はない)

ただ、確実に過去から今まで大切に抱えてきたものがポキっと折れる音がしたことは事実で、それはつまり25年間大切に育ててきたものを、すべてではないにせよ変えなければ、この先の人生うまく進めないということのようだった。

さてはて、困った。
自分の気持ちや相手のこと、その時2人や3人の間にある話題や課題を根底まで立ち戻って考えていれば、当然それはすぐに答えが出せるわけではない。

ただその釈然としない状態は、世間的に見たら"わからない"の5文字で収まるもののようで、僕はどうやらもっと明快かつ整頓されたコミュニケーションを求められているようだった。社会で労働をしている以上、仕方のないことか。

冒頭に、本音をかけるのはnoteと歌詞だけになったと言った。
僕は今コミュニケーション恐怖症だ。どうやったら、あなたやあなたやあなたに、きちんと受け止めてもらえるような言葉を紡げるのだろうか?

でもここまで2000文字、こんなにもぐるぐると思考を巡らせている時点で、結局僕はまた同じことを繰り返しているのかもしれない。バカバカしく思えてしまうが、これが今の現実である。

ネガティブを乗り越えていく時、
むき出しの現実を目の前に据え置いて凝視することだけが正解ではないと思う。
たとえネガティブを生み出した物事や思考が世間的感覚とずれていても、自分や一部の誰かにとっては、それはきっと価値のあることだと、まずその物事や思考を肯定し励ましてあげることから始まると思う。(少なくとも自分を生かしているものであることは間違いないから)

そうでなくちゃ、ネガティブを被った人間は、
現実に立ち向かうことすらできない。

今自分の前には、肯定なき現実がそびえ立っているわけだが、自分はたとえ苦しくても、新しい自分を手に入れるために、25年間で築き上げた旧い武器を、少しずつ手放していくと決めた。
根底を捉えるまで考え続ける今の自分が、少しだけ健やかに生きれるためのテクニックを取り入れることを、受け入れていくと決めた。

ネガティブを受け止め過ぎず、
より早く的確に自分の意思を持つこと。

それはとても辛く覚悟のいることだが、自分がこれから健やかに生きていくためにも、うまくバランスをとっていく必要があると感じている。

この人生、終わらない葛藤と手探りの努力を繰り返してなんとかここまでやってきた。そこで生まれる表現を歌にしてここまで生きてきた。さて、この先どうなってしまうのだろうか。

これで自分が変わった先にある他者の反応が未だ"わからない"だった時、僕はどう思いどうなってしまうのだろうか。

葛藤は続く。努力も続く。畏れさえ続く。
でも何より日常が続いていく。

僕らには続く労働があり、それ以外の諸々のこともある。だから続く日常を受け入れながら、その傍らで変化していくしかなさそうである。
pcで言えば"応答なし"状態の自分だが、"シャットダウン"はおろか、"再起動"の選択肢もなさそうだ。

でも、もし誰かが、
一旦立ち止まる勇気を、全てから逃げる勇気を肯定してくれたら。
そんな夢みたいなことは、どうやら起きない。

この世には、自分しかいない。

この文章が気に入っていただければ、ぜひ。 創作活動(執筆・音楽)のために、使わせていただき、それをまたみなさまにお披露目できればと思っています。