2019年 F1 イタリアGP レビュー

やはりグランプリはこうじゃないといけない。
2019年のイタリアGPは「古典的」なレーシングファンを存分に納得させるレースだったのでは無いか。
極めてシンプルなレイアウトをもつモンザのとトラックを最新鋭のマシンが駆け抜ける。だがそこには複雑な駆け引きが無かった。誰が最初にチェッカーを切るか。それだけを考えて各ドライバーが愛馬に鞭を入れる。
そう、レースなんてものは結局それでいいのだ。

ポールポジションはフェラーリのルクレール。
前戦ベルギーGPからの勢いそのままに、フェラーリの聖地であるモンザでもしっかりポールを奪う。面白かったのは、その予選での彼の傲慢さだ。
僚友のヴェッテルにスリップを使わせず予選を終えた。彼なりの言い分はあるのだろうが、誰もそれを信じるものはいない。
フェラーリはベルギーGPの結果をもってして政権交代が行われた。
この帝国は今はっきりとルクレールに皇位継承の儀を行なったのだ。
予選での裏切り行為についてフェラーリの首脳はポーズとしては怒ってみせたが、もはやこの若きエンペラーがフェラーリの救世主であり、サーキットに押し寄せるティフォシを納得させる結果を持って帰ってこられるのは彼しかいないという現実がそこにある。
11年前にここモンザで、フェラーリエンジンを使ってフェラーリ以外のシャシーで奇跡を起こした男は静かに玉座から追われた。
「イタリアの恋人」はルクレールになったのだ。

その若き皇位継承者は、グランプリを制圧するハミルトンと一騎打ちとなる。
サマーブレイク後、いまいち波に乗れていないハミルトン&メルセデスだが、それはあくまでも前半戦の「完全制圧」と比較しての話。
加速よし、曲がってよし、グリップよしのオールラウンドマシンであることは間違いないし、ハミルトンの腕前としてもやはり当代随一であることは間違いない。

結果として極上のバトルが展開された。
ルクレールとハミルトンだけの時間。
それ以外の20台ははっきり言ってしまえばモブキャラである。
それぞれ色々な思いを抱えてこのレースに挑んでいたのだろうが、残念ながらルクレールとハミルトンのバトルの前にそれは引き立て役としかならなかった。
これがF1の残酷なところである。
正解最高峰のテクニックと強さをもつ22人のドライバーでさえ、誰かの引き立て役になってしまう。
ファクトリーで膨大な予算と人手と時間をかけて開発されたマシンも、誰かの引き立て役になってしまう。
それが正しいことなのか、それはわからない。
そういうことが続けば、おそらくF1は早晩崩壊するだろう。すでにその芽はある。
どのエントランスもどのドライバーも見せ場がある、そんなレースになればそれはいいだろう。だが、この残酷さがF1を構成しているのもまた事実だ。

レースディスタンスで見るとフェラーリよりメルセデスのマシンの方が分がある。
タイアへの入力も優しいので、ハミルトンはジワジワと追い上げる。
ここで、お互いがお互いのラインをリスペクトしながらバトルしたーと書くことができればそれは美しいお話になるのだが、現実は違った。
ルクレールのブロックは端的に言ってエグかった。
ストレートでのムーブはあからさまにハミルトンのラインを潰していた。シケインでミスした後の戻り方も「騎士道精神」に反したものだった。
事実ハミルトンはレース中からその点について不満タラタラであったし、レース後のコメントも不快感が隠すことなく表明していた。

裁定については、カナダGP以降のスチュワードは全く信頼の置けるものでは無く
彼らの下す判断には1ミリも納得できるものでは無い。
だからここで結果的にルクレールにペナルティが下されなかったからと言って、彼のドライビングが100%正当化されたとは思っていない。
モンザというホームアドバンテージは確実にあっただろうし、スチュワード側としてもカナダとオーストリアでの借りを返しておこうという気持ちもあったであろう。
(借金返済の場としては最高のシチュエーションだ)
ルクレールのドライビングは正しくなかった。
F1ドライバーには相応しくないドラビングだった。F1ドライバーとしては。
だが、フェラーリの皇帝としては彼のドライビング、コース上での振る舞いは100%正しいものであった
誰がこのレースを統治するのか。それを彼は初勝利からわずか1週間で明確に意識している。
フェラーリが2007年以降失っているドライバーズタイトルを奪い返す。
そのためにはスチュワードに愛想を振りまいて、誰からも愛されるナイスガイになる必要はあるか。答えは否だ。
当座の敵はハミルトンであり、来年以降はそこにヴェースタッペンも加わってくるだろう。
やることはシンプルだ。彼らがトラック上で仕掛けてくる際に、「こいつは危険だ」と思わせる。
ハミルトンはそれをデビューの時からナチュラルにできている。
ヴェースタッペンに至っては彼のドライビングでルールに明確な注釈がつく変化をF1にもたらせたほどに傲慢なドライビングをする。
過去の皇帝や貴公子も同じだ。トラック上でどれだけ傲慢な振る舞いが出来るか、それがチャンピオンになれるドライバーとそうでないドライバーの差異である。

その振る舞いを許容出来るかどうかは、それぞれの才能にかかっている。
才能がなければそんな振る舞いをしたところで、F1という村社会から追い出されて終わりだ。村の掟は単純で残酷だ。誰もが同じ権利をもっている訳ではない。
ルクレールはベルギーからイタリアまでのわずかな期間で、自身がその振る舞いをする権利があること、その振る舞いをしなくては玉座につくことが出来ないことに気がついたのだろう。そしてそれを遂行した。
誰も彼を責めなかった。イタリア、モンザの森に集まったティフォシは高らかに勝利の凱歌を口ずさんだ。フェラーリを、イタリアを救った若者は玉座への道すじを確実に見据えた。

シーズンはヨーロッパを離れてフライアウェイの最終ラウンドに入る。
ルクレールはシーズンの残りのレースで、今回のようにハミルトンとの二人だけの世界を築きあげることが出来るか。
それともそこにヴェースタッペンが絡んできて愛憎の三角関係になるのか。
はっきりしているのは、その世界最速の恋愛リアリティショーの出演者たちはだれよりも傲慢で誰よりも魅力的だということだ。


#F1 #レース #モータースポーツ #スポーツ #観戦記 #フォーミュラワン #F1jp
#スポーツ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?