F1 2024 サウジアラビアGP観戦記「正解なんてない」

何が正解だったのか。
2024年F1サウジアラビアGPを終えて、頭に思い浮かぶのはその正解がなんであったか。そのことだ。
レース自体は、昨年からの勢力図を完全に持ち越した展開でレッドブルがグランプリを支配した結果となり、我々に残されたのはレースの楽しみがどこに落ちているかを必死で探さなくてはならないという、この手のコラムを書く者にとっては非常に苦痛を伴う展開である。
だが、捨てる神あれば拾う神あり。
アラブの地の神様も今回ばかりは私のようなボンクラ異教徒に優しく微笑んでくれたようだ。
そう、すなわちハースと我らが角田の攻防戦のお話である。

いや、ベアマン父子のドキドキ、アラブの大冒険もネタとしては抜群だし、それより何より燻り続けているホーナーの下半身大暴れ事件(からのレッドブルお家騒動)も興味深い。
いずれもネタとしては超一流だ。
ハースと角田の1ポイントを争う、『泡沫』なお話なんてものは1年度には忘れ去られている類のものかも知れない。
だが、この1ポイントを巡る攻防に参加した3人のF1パイロットと2つのレーシングチームの交差は、近年のF1を語る上でかなり重要なファクターを含んでいるように思えてならないのだ。

擦られ続けたテーマではあるが、モータスポーツにおける個人とチームの関係性、個人と組織の優先権はどこにあるのか。
もちろん他のチームスポーツにも同様の視点があるが、チームメイトが一番最初のライバルとなるモータースポーツのおいて個人戦かチーム戦であるか否かは根の深い問題であると言える。

結論から言うと、ハースのドライバーは共同戦線をひきマグヌッセンが囮、犠牲となって角田を完全に封じ込め、僚友のヒュルケンベルグのポイント防衛をアシストすることに成功した。
マグヌッセンのドライブはあまりに露骨で、封じ込められた形の角田はポイント獲得の機会を逸することとなり、結果的に15位でレースを終える羽目となってしまった。
このハースの戦略について、賛否が別れることとなった。
またその前のバーレーンでのRBの戦略の不味さの記憶が鮮明な中、ハースに見事にしてやられた角田に対して、その身の不運さに同情する声も聞かれる。

賛か否か。
いづれにせよ、この論争でどちらかのポジションについた人は、そのままモータースポーツが個人の争いなのか、チームの戦いなのかについても明確にポジションを取れる人なのだろう。
正解か不正解かはおいておき(そもそもそんなものは誰もジャッジできない)、モータースポーツにおいての組織のありかた、ドライバー個人の価値について自己の意見を明確に保持しているとお見受けする。
そういう意味で、あのシーンはF1において必要なシーンであったと言える。
答えの出ない問題ではあるが、我々が見ているの一体なんであるかを、今一度考える機会に接することができたという点で、あのハースの戦略は、そして何にもできなかった角田は、貴重なきっかけを与えてくれたと言える。

我々がモータースポーツを見ることによって、感情をどう刺激されるのか。
どう刺激して欲しいのか。
見るべき動機が一体何であるのかを今一度考える、そんなシーンだったのではないだろうか。
漠然に、一方的に、F1が提供してくる情報を受動的にキャッチせざるを得ない我々一般的モタスポフリークが、改めて何に感動したくてこのジャンルのスポーツを観ているのか。

極めて個人的なポジションの話をさせていただければ、あの争いで見たかったのは、マグヌッセンをパスした角田が、再度マグヌッセンにいささか強引なラインで抜き返され際に、角田にはその土手っ腹にノーズを突っ込んで欲しかった。
マグヌッセンが嫌いとか、その手の粗いレースを推奨するとか、全く関係ない。
個人が組織の力に立ち向かうには、やはりその手の意志の強さを示す必要があるからだ。
それは一般社会であってもモータースポーツであっても変わらない。
舐められたら終わりなのである。
残念ながらサウジアラビアでの角田は、ハースにとって撮るに足らないもの、美味しいカモ、そういった存在だったのだ。

#F1 #レース #モータースポーツ #スポーツ #観戦記 #フォーミュラワン #F1jp #フォーミュラワン #モタスポ  #F1_2024

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?