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知識0でもわかる認識論の哲学史

哲学の世界では何百年、何千年もかけて人がどのように物質や概念を認識するのかを議論してきました。これを認識論といいます。

例えば目の前にリンゴがあれば、私たちは当たり前のようにそのリンゴがそこに存在しているとして認識しますよね。

でもそれって本当でしょうか?
もしかしたらそれは精巧に作られた食品サンプルのリンゴかもしれませんし、私たちがリンゴの幻覚を見ている可能性もあります。

そのような可能性を考えだすと絶対に本当のリンゴがそこに存在することは証明し得ないのです。

つまり主観(リンゴを見ている私)と客観(そこに存在しているリンゴ)の一致は確かめようがないということです。

このように全てのものを疑って絶対に確かなものはないと主張する考え方を懐疑主義といいます。その懐疑主義者たちを真っ向から否定したのがかのデカルトでした。

懐疑を徹底することで絶対に疑えないものを発見したデカルト

デカルトは方法的懐疑という考え方をしたことで有名です。これはあらゆるものを徹底的に疑って、疑って、疑い尽くして、それでもなお残る確かなものを追求するという手法です。

先ほども述べたようにそこにリンゴがあることはいくらでも疑うことができます。夢を見ているのかもしれませんし、悪霊に幻覚を見せられているのかもしれません。そのように疑っていって残る確かなもの、それが「疑っている私という存在」です。目に見えるもの全ては疑うことができるけど疑っている私自身は絶対に疑い得ません。

これがあの有名な「我思う、故に我あり」という言葉の意味です。

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デカルトは絶対に確かなものを見ました。この絶対に疑えないものをスタートとして哲学は発展していきます。

人間の追求し得る範囲を限定したカント

次に現れたのがカントです。カントは冷静に人間が追求しうる真理の範囲を限定しました。

別の種族の動物や虫たち、例えばトンボやニワトリなんかはりんごを見ても人間と同じ認識の仕方をするとは思えません。人間には人間特有の認識の仕方があり、人間はその認識方法の範囲内でしかリンゴを認識することをできません。

そこで例えば「神」のような絶対的な認識ができる存在を仮定してみましょう。神は完璧な認識をすることができるので”ほんとう”のリンゴを認識することができます。この神から見た”ほんとう”の認識物を「物自体」といいます。

「物自体」を人間が認識することはできず、人間は人間にとっての真理を探求するしかありません。

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人間の能力の限界を示したのがカントの大きな仕事でした。カントは神の存在、そして物自体というものの存在を想定していましたが、それを取っ払ったのがニーチェです。

欲望相関的にものを認識していると考えたニーチェ

ニーチェは物自体など存在せず、世界にはカオスが広がっていると主張しました。それぞれの虫や動物たちはそれぞれの欲望に相関してカオスからそれぞれの認識を生み出しているという考え方です。

例えば、同じ人間でも欲望に応じてリンゴの認識の仕方は変わります。空腹の人にとっては食べ物として認識されますし、子供にとっては投げて遊ぶ道具として認識されるかもしれません。

このようにニーチェは絶対的な物自体など存在せず欲望相関的に物を認識すると考えました。

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そして最後に登場するのが現象学の祖として知られるフッサールです。

主客一致の問題を保留したフッサール

今までの哲学者たちは主観と客観の一致はいかに可能かを考えてきました。しかし、フッサールは主観と客観の一致は確かめようが無いし無意味だから一旦保留する考え方をしました。これをエポケー(判断保留)といいます。

主観と客観の一致を確かめることができませんが、リンゴを見てそのリンゴが見えてしまっているという確信は疑いようがありません。ではなぜそのような確信が生まれたのかという確信成立の条件を考えることが重要だと主張しました。

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これはリンゴで考えていると何のためにするのかよくわかりませんが、リンゴを「美」や「正義」などの価値、概念に置き換えるとその意義がよくわかります。

つまり絶対の「美」や「正義」は確かめようが無いが「美」や「正義」を感じているという確信は疑えません。ではなぜ「美」や「正義」が生じたのかという確信成立の条件を考えるとそれぞれの概念の本質を洞察することができます。

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価値観によって一人一人「美」や「正義」などを感じる対象は異なりますよね。なので、一人で考えても個人的な確信の理由しかわかりません。そこで様々な価値観を持つ人たちが集まり、それぞれどんな時に「美」や「正義」を感じるのかを出し合い、共通して納得することのできる確信成立の条件を考えることによってより普遍的な本質洞察が可能になります。

この際ニーチェ的な考え方も重要です。つまり、「美」や「正義」を感じた時にどのような欲望があってそれを感じたのか、欲望の次元まで遡って考えることで異なる価値観を持った人同士でも共通了解を得ることができます。

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