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羊文学と誰かの魔法

アルバイト先のボスは、いつも仕事中にFMラジオを流しながら働いている。音量は小さすぎず、大きすぎず。暇なときにぼうっとしていると、すっと耳に入ってくるくらいのボリュームだ。FMラジオでは、某作詞家A・Yが女の子を連れて食べ歩きをしたり、パーソナリティがゲストと人生論を論議していたりしている。そして、そんなカオスな番組を囲むように、バラエティ豊かな音楽番組がタイムテーブルをぎゅっと埋め尽くしているらしい。

放送される音楽の多くは洋楽やK-POPで、聴いていても歌詞はあまり理解できない。でも、リズムを楽しむことはできる。職場だから身体を揺らして旋律に共鳴することはできないけれど、時々こっそりと指先で簡単なリズムをとって音楽を楽しむ。ラジオに耳を傾けていると、しばしば知っている音楽がチョイスされることがある。たとえば、ビリー・ジョエル、KAN、チャットモンチー。にわかに知っている曲がラジオから聴こえてくると、新聞の地域面や地元の広報誌の中で、友人や知人の名前を見つけた時に似た興奮を覚える。

仕事がそれほど忙しくなかったある日も、ぼうっとラジオを聴いていた。40代前後の渋いDJの声。「それでは次は、羊文学で———」。曲名を告げた男の残響が去るのとほぼ同じタイミングで掻き鳴らされるギターの音色と、やさしくて力強い塩塚モエカの歌声が耳に届く。羊文学は、寂しいときや、辛さを感じたときにしばしば聴いている曲だった。

ある日の文芸雑誌に、「菓子は悲しみに寄り添うものである」と綴られたエッセイが掲載されていた。ケーキや焼き菓子のようなお菓子は何かの記念日のような日に食べられることが多いけれど、むしろ菓子は孤独や悲しみのような感情に寄り添うものであり、菓子にはその力がある、というようなことが書かれていたと記憶している。ひるがえって音楽も、そんな力があるのではないか。優しい生クリームの甘味が僕らの寂しさをそっと包み込んでくれるように、音楽のもたらす感動や感涙もまた、僕らのすべてを肯定し、寄り添ってくれる。それはまるで、魔法やおまじないのようなもの。

僕にとっての魔法が公衆の電波に揺らされて、誰かのカーステレオから、受験生のポータブルラジカセから、果てはアルバイト先のボスのラジオから流れている。恥ずかしいような、もどかしいような、言葉にならないモジモジとした感情が込み上げてくるのを感じた。横に座るボスの横顔をちらりと覗くと、彼は目の前のパソコンに表示されたエクセルファイルに夢中で、ラジオから流れる魔法のことなどまったく気に留めていない様子にも見えたし、あるいは少しだけ音楽に意識を向けているようにも見えた。

僕がケーキや音楽を心の小さな拠り所にしているように、誰かにとっての魔法はスポーツかもしれないし、麻雀かもしれないし、あるいはオンラインゲームかもしれない。うまく言葉にすることが難しいけれど、みんながお互いの価値観を今よりもちょっとだけ大切にできる社会になったら、どんな未来が待っているのだろうかと夢想する。ひとはみんな同じで、ひとはみんな違う。僕は、あなたのすべてを理解することはできない。でも、だからこそ僕たちは、他者の拠り所がたとえどんなものだとしても尊重しなければならないのではないか。そんなことを、ぼんやりと思う。

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