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豊かで美しい感性

表題「豊かで美しい感性」について、
それはどういったものか考える機会があったので、自己討論会の議事録を残します。

豊かで美しい感性とはなにか、ある場所では「豊かさ=多様性」、「美しさ=独創性」と定義していました。
掘り下げると、この世界には多種多様な価値観、
考えが渦巻いているということを自覚し、
これらを柔軟に捉えること、またこの世界をどのように見るのか
という感性の根幹
にあるべきが、「豊かで美しい感性」とされています。

 この説明だけですと、自分の中でなんだかパッとしなかったので、まずは前提の部分を自分なりに掘り下げることにしました。

「豊かさ=多様性」「美しさ=独創性」の部分は概ね同意なのですが、それぞれ
豊かさ ⇒ ある特定のものに対して「偏見」がない状態
        ⇒ 多様的且つ普遍的に物事を捉える
美しさ ⇒ ある特定のものに対して「多面性がある」と認めている状態
        ⇒ 独創的な考えに起因する
といった風に自己解釈しました。
豊かさについて、「偏見がない状態」としましたが
物事を捉える際、自己の好き嫌いという観点から脱した状態」とも言えると考えます。
要するに例えば何か初体験のものに触れる際、特に「嫌い」という感情を払拭して進んで体験として取り入れるような状態ということです。
選り好みするなということです。
「嫌い」を払拭しろというのであれば、「好き」に従って動くことは?と考えるかと思いますが、
「好き」に従ってそれのみ重点的に行うことが豊かさに反することで合って、
「好き」の感情を払拭しろということではありません。「好き」に従うことは素敵なこと!

 一方、美しさについて、かなり悩んだのですが、「多面性があると認めている状態」としました。
独創性というものを軸において美しさというものについて考えたとき、想定したケースが「独創的な人変人との違い」であったためです。(以下、個人的な見解になります。)
独創性はユーモアとも言いますが、例えばある芸術的なものを目の当たりにしたとき、独創的な人と変人の開口一番は、ユーモラスなものであろうな、と想像しました。
では、その両者で何が違うのかと考えたときに、変人は目の前のもののユーモアな一面を享受し発信する一方で、
独創的な人は目の前のもののあらゆる性質を捉え、その一部をピックアップして発信するのではないか
という発想が浮かびました。
一体何がいけないのかというと、独創性は相対的でなければならないと考えるためです。
10人中10人が同じ発想の集団の一員と、10人中1人が異なる発想をする集団のその1人とでは、独創性の重みが違うと考えます。
変人という極端な例を挙げているためすべてが一概にこうとは言えませんが、
この考えに背中を押されて美しさの定義を上記のものとしました。

 以上から、「豊かで美しい感性とは結局何?」と考えたとき、次のようにまとめられるかと感じました。

選り好みせず自ら進んで様々なものに触れ、
それぞれを深く探求して色々なものの捉え方が可能な感性

自己の好き嫌いという感情を以ては多様性は身に付かないし、
独創性はものの多面性の理解の上にある、という発想です

映画や本や音楽といった文化、また人付き合いなんかでも、選り好みしてきた場面は多かったため、
それらに前向きに取り組むこと、またそれぞれ理解を深めることでユーモアな発想ができるようになりたいなと感じます。

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