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彼の瞳が語っていたこと -エルサレム旧市街-

ファインダーを通していなければ、その視線に耐えきれなかったろう
数秒ののちにシャッターを切って、その場を立ち去った
彼はそこに残る人で、わたしは立ち去る人だった
立ち去ることができる、人だった


2017年7月、初めてヨルダン川西岸地区を訪れた。
パレスチナを旅することに慣れた友人との、5日間ほどの滞在だった。

初日の朝。東エルサレムのバス停留所には、銃を持ったイスラエルの兵士と警察官が大勢いて、空気が張りつめていた。友人にとっても、これまで見たことのない状況で、前週にエルサレム旧市街で起きた事件が原因だとあとで知った。

その日は金曜礼拝だったが、事件の「治安措置」としてイスラエル政府は、イスラム教徒がアルアクサ・モスクのある神殿の丘に立ち入ることを禁止した。祈りの場を奪われたパレスチナの人々は抗議の声を上げ、緊迫した状況となっていたのだ。

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アルアクサ・モスク
(パレスチナ人の入場が禁止されていたため
写真は外国人だと思われる)


エルサレムを出ると、身の危険を感じるような物々しい空気には、ほとんど出会わなかった。わたしが立ち寄った範囲でしかないが、ひどい貧困を目にすることもなかった。二晩泊めていただいた南の古都、ヘブロンのお宅に関しては、東京の我が家の数倍広く、暮らしも豊かであった。

けれど彼らの日常は、わたしの東京でのそれとは明らかに異なっていた。

あるチェックポイント(イスラエル兵による検問所)には、2種類の通路がある。わたしが通過に戸惑っていると、同じ目的のパレスチナ人と思われる親子が、恥ずかしそうに微笑みながら「籠に手荷物を入れて」とジェスチャーで教えてくれた。
彼らはわたしとは違う通路を行き、わたしが通過したのち振り返ると、まだ足止めされていた。

ヨルダン川西岸地区の中心都市、ラマッラーからエルサレムに戻るバスでの出来事。
エルサレムに入るチェックポイントでバスごと足止めされる。しばらくして車内に乗り込んできたイスラエル兵が、パレスチナ人以外は降りるように指示する。私たちには別のバスが用意されていて、一足先に街に入ることになった。

これもいつもの風景だという。行き来する人々は、なにも特別な事情だとか犯罪歴があるわけではない。私たちと同じように、生活のために出勤や買い物などをしているだけだ。
停車しているあいだ、運転手の手が、怒りのやり場を求めて小さく震えているように見えた。

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イスラエル兵に監視・規制される
パレスチナの人たち


ふらっと訪れた私たちは、イスラエル政府の管理するシステムに何度も優遇され、生活者であるパレスチナの人たちを、いつも残して前へ進んだ。
その都度わたしは振り返った。でもそこでシャッターを切ることは一度もできなかった。銃を持った兵士がこわくて、そして、パレスチナの人々の尊厳を傷つけてしまいそうで。

街中では何枚も写真を撮った。市場の活気、パン生地を投げるおじさん、ジュースにするニンジンの皮をむく少年、オリーブオイルの石鹸工場。覆面アーティスト、バンクシーのホテルやその正面にそびえ立つ分離壁。ヘブロン旧市街の天井に貼られたネット(イスラエルの入植者が上からペットボトルやゴミなどを投げ落とすため、その対策)・・。

文化の違いや、それでも見えてくる普遍的な生活者の表情、そしてこの地を蝕む分断の「象徴」を記録していくこと。貴重ではあったが、シャッターを切るたびに既成事実を積み重ねているだけのような違和感がのこっていく。
結局は、何も自分の目で見ていないのではないだろうか。


旅の後半、エルサレム旧市街のムスリム地区を歩いていた時のこと。

小さな商店のならびの、さらに小さな一角にさしかかった。雑貨が並ぶ店先に、パレスチナ人らしき青年が座っていた。ずいぶん思いつめた表情をしている。

正面を向いてぴくりとも動かないが、目の前にあるものを全く見てはいない。
深い思考の中にあって、「現実の世界」に対しあまりに無防備に見える。

私はゆっくりと膝をついて、彼の視線の高さに合わせてカメラを構えた。
人通りが多かったので、過ぎ去るまでその姿勢で待つ。なぜか何分でもそこで待てるような気がしていた。

そのあいだに店先の青年がこちらに気づいた。

ファインダー越しに視線が合う。

一体あれは、どのくらいの時間だったろう。

そのあいだ、青年は表情を変えなかった。観光客に向けられたカメラによそ行きの笑顔をつくることも、撮影をやめろと不機嫌になることもなかった。

おそらくは「数秒」ののちにシャッターを切って、
わたしはその場を立ち去り、青年はふたたび正面を向いた。
旧市街の喧騒がもどり、何事もなかったかのように、ふたたび時が流れはじめた。

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ヨルダン川西岸の「パレスチナ自治区」を旅するなかで私が知ったこと。それは、パレスチナの人々が、彼らにとって大切なふたつのものを奪われつづけているということだった。

一つは、生活者としての権利と自由。これはとても普遍的なもので、自分の持っているものと比較しながらその痛みを想像することができた。もちろんそのような想像では、彼らの現実に到底及ぶことはないのだけれど。

そしてもう一つが、祈りだった。
「信仰」とした方が正確なのかもしれない。けれど、祈りと言語化した方が、宗教的な信仰心を持たない私には、実感しやすい。パレスチナにいるあいだ、何度も
“ いのり ” の3文字を頭に浮かべた。もちろん簡単に理解することはできなかったが、この人たちの祈りを尊重したいと思った。

イスラム教の聖地、アルアクサ・モスク。
今年の5月から今もつづく、イスラエルとハマスの攻撃の連鎖の火種となったのも、やはりこの場所での混乱だった。この地での祈りを奪うことは、パレスチナの人たちの尊厳を深く傷つけてしまう。培い、引き継いできた歴史や文化や信仰が彼らの精神的支えであり、誇りであり、最後の砦なのではないだろうかー。

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ヘブロンの夕暮れ
どこか日本に似た風景だった


“ あなたたちは興味の向くまま記念写真を撮り、そこで見たものを消費して帰っていく ”

目が合った瞬間、青年にこう言われたような気がした。或いは、わたしが自身に向けて囁いたのかもしれない。
けれどもそれでカメラを下ろせば、また同じことの繰り返しだった。

一方でそれはわたしの都合であり、あのとき主導権はわたしが握っていた。その場から移動する自由も、彼の肖像を記録する自由も、私の手の中にだけあった。シャッターを切ったことは、わたしの暴力だったのではないか・・今でもそのように振り返ることがある。

日本に帰ってきた私が、あの日撮らせてもらったことに応えていくための唯一の方法。

それは、忘れないことだった。

わかりやすい答えを用意して終えるのでなく、わからないことを想像しつづけることだった。

写真の中の彼の視線が、いつでもあの時、あの場所に私を戻してくれる。そうして考えるのだ。

あの時、彼の瞳は何を語っていたのだろう。


文・写真 / 蔵原実花子



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