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パテックフィリップの歴史③(パテック氏世界の時計屋へ編)


こんにちは!

 前回までお話しさせていただいてきたパテックフィリップの創業者、アントワーヌ・ノルベール・ド・パテックについてのお話も今回が最後!
ここまでお付き合いいただけた方ありがとうございます!
 さて、今日まで続く有名メーカーパテックフィリップがいかにして世界に名を轟かせていったのか、その歴史をお話しさせていただきます!

運命的な出会いと別れ

 1839年に会社を設立して時計職人であるフランソワ・チャペックをパートナーにしたことで時計製造も行うようになったので、1844年にパリで開かれた産業博覧会に更なる事業拡大に向けて、自社製品を出展するために訪れました。そこでパテック氏は今後の事業拡大に必ず必要な人物と出会います。

ジャン・アドリアン・フィリップ

 その人物こそ、フランス人時計職人ジャン・アドリアン・フィリップです。 お気づきになられた方もいらっしゃると思いますが、のちに会社が「パテックフィリップ」となった時共同経営者となる人物です。 フィリップ氏もまた自分が開発した時計を出展するために博覧会を訪れていました。

 彼が開発した時計とは、備え付けられたリューズ1つで動力のゼンマイの巻き上げと、時刻合わせができる画期的な時計でした。 
 この時代の時計はまだゼンマイの巻き上げと時刻合わせをするのにも苦労する時代だったんですねぇ

時計のリューズ(真ん中のギザギザした突起)

 この時計を見たパテック氏は感激して二人は意気投合し、翌年1845年にフィリップ氏が開発した時計の機構の特許を取得して、彼もまた時計職人として会社に迎え入れられました。
…じゃあチャペックはどうしたの?、というと
彼はフィリップ氏と入れ替わる形で会社を去っていったのですが、内実は金遣いが荒いことなどで度々揉めていてこれが原因で二人は袂を分つことになったのです。
 こうしてチャペックが会社を去ったことにより
会社は「パテック」になりました。
「パテックフィリップ」になるのはもう少し先になります。

世界への挑戦、自由への活路

 その後、1848年にフランスで再び労働者層が立ち上がり、革命を成功(二月革命)させたことにより経済的不安が訪れて経営が傾いたりしていましたが、パテック氏持ち前の胆力とフィリップ氏の技術革新へのモチベーションなどで苦難を乗り越えていき、迎えた運命の1851年。 この年の
イギリス・ロンドンで行われたのが、ロンドン万博博覧会です。
 パテック氏達は、リューズによるゼンマイ巻き上げ・時刻合わせ時計を出展して見事金賞を受賞しました! 当時のイギリスは産業革命の真っ只中で世界最大の工業大国でした。
 その中でヴィクトリア女王や各国著名人から高い評価を得て、パテック氏達の時計は世界に名を轟かす世界的メーカーとなったのです。
 そして、フィリップ氏が正式に共同経営者となり、会社は「パテックフィリップ」となりました。

 また、この年ティファニーとも提携を結び、ゴールドラッシュによって好景気だったアメリカ市場にも進出しました。 ティファニーは1837年創業で、パテックフィリップと創業時期が近いこともありますが、ティファニーの創業者の先祖はイギリスから宗教の自由を求めて移住したキリスト教のプロテスタント派教徒だったというルーツを持っていて、スイス時計のルーツと似ているという共通点があったことも提携が結ばれた理由にあるのかもしれませんね。

 この提携は今日でも続いていて、最近では2021年に提携170周年を記念してティファニーブルーのノーチラスを製作して、オークションで約7億円という高値で落札されました。
 両者のこれまで積み上げてきた歴史と実績があるからこそ、世の中からの評価としてこれだけの価値が付いたわけですね!

 1854年には単身でアメリカへ渡り、産業革命による工業発展したことにより、大量生産が行えるようになったことで、時計が工場で大量生産されて安価に販売されている様子などを視察して、少量生産の手仕事による美しく、独創的で、高品質な高級時計の将来性を見出し、今日まで続く
パテックフィリップの伝統を創っていきました。



 かくしてヨーロッパ・アメリカで躍進していくパテックフィリップですが、日本との関わりはいつからかというと、第2回パリ万博が行われた1867年から関わりを持つようになります。
 この時パリ万博にはじめて日本が浮世絵などを出展していて、当時の将軍徳川慶喜の代わりに弟の徳川昭武が使節団長として来ていました。
 その道すがら昭武はスイスに訪問していて、この時にジュネーブにあったパテックフィリップに立ち寄り時計を3つ購入して、日本人最初の顧客となりました。 

 権力者の顧客以外にもアインシュタインやキュリー夫人など科学者、チャイコフスキーやワーグナーなど音楽家、その他ウォルトディズニーやクラークゲーブルなどなど…
 学者、芸術家、実業家など各界の著名人で国籍にも囚われない世界的に愛されるメーカーになりました。

 こうして世界を股にかけ、幾度もの苦難と戦いながら道を切り拓き、成功を収めたアントワーヌ・ノルベール・ド・パテックは1877年にその人生を終えました。

 ポーランドに生まれ、フランス、スイスと渡り歩き、その国々で様々な経験や出会いから
 自由を得るためにはお金や権力ではなく、知性と情熱、そして自分を律して自らの意志で道を切り開いて行く覚悟があってはじめて成功という名の自由を得られたのではないでしょうか
 デフレの波に追い討ちを掛けるように、襲いかかってきたコロナによって日常が崩れて、今なお先を見出せずにいる我々日本人もパテック氏に学ぶところが多くあると私は思います。

まとめ

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
 時計界の偉人パテックフィリップ創業者、
アントワーヌ・ノルベール・ド・パテック編
これにて終了です!
 今回は、時計のため知識だけではなく、パテックフィリップ創業者の生い立ちや歴史的背景を元に個人的な解釈、推論をお話しさせていただきましたが、いかがだったでしょうか?
 時計がお好きな方以外に歴史好きの方にも読んでいただけていると嬉しいです!

読んでいただけて面白かった!、初耳なことがあったなどありましたら、これからも人物や製品、会社にフォーカスしたストーリーをお話しさせていただきます!
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今後ともよろしくお願いいたします!!


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