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第11回 主よ、人の望みの喜びよ

[編集部からの連載ご案内]
『うろん紀行』でも知られるわかしょ文庫さんによる、不気味さや歪みや奇妙なものの先に見える「美しきもの」へと迫る随筆。今回は、好きなものをたらふく食べたいという希望の先に、果たして約束の地はあるのか、どうか。(月1回更新予定)


友人がなか卯の「天然うにいくら増し増し丼」を激賞していた。これまで、わたしから友人にセブン-イレブンの「エリックサウス監修 ビリヤニ」や、松屋の「シュクメルリ鍋定食」を薦めたことがあった。だが、友人から布教されるのは初めてだったので、珍しいなと思いつつも、その熱量に面食らった。以下は実際のメッセージからの引用である。
 
 都心やオフィス街でまともな丼ものが食べられる
 
 札幌でも同じ値段で食べられないのではないか
 
 1,690円の段階でもウニとイクラが2倍設定になる
 
 増し増しの特盛にするとさらにイクラが2倍でMAX設定となる
 
「MAX設定」ってなんじゃ、と問う間もなく、イートインver.とテイクアウトver.の「天然うにいくら増し増し丼」の画像が次から次へと送られてきた。いかれてやがる。言ってもなか卯でしょ、うどん屋さんでしょ、と疑いの気持ちを抱いたが、「ロシア情勢の影響で安いのかもしれない」、などとそれらしいことを言われ、さもありなんと心が傾く。わたしはもともと、東名阪出身者の海鮮における味覚の解像度を舐めくさっており、ミョウバン味のうにどころかうに風味のミョウバンを、うにだうにだとありがたがって恥ずかしくないのかよ、と心のなかで悪態をついてきた。だが友人は同郷、北海道出身なのである。たとえうどんのチェーン店で提供されるうにであっても、道産子がうまいと言うなら懸けてみようか。
 
数日後に近隣のなか卯に赴き、食券を買い求めようとした。しかし、「天然うにいくら増し増し丼」どころか「天然うにいくら丼」すらも、すなわち食券機のうににまつわるすべてのメニューがグレーアウトしていた。失意のわたしは店を出るなり、なか卯のお客様窓口課に電話した。郷愁を誘うブルージーでいい感じの保留音が流れた。しばらく待つとオペレーターに繋がり、わたしは尋ねた。期間限定メニューの「天然うにいくら増し増し丼」は、終了したのですか?
 
わたしは電車に乗り込んでいた。川の向こうの街にあるなか卯には、まだうにの在庫があると教えてもらったからである。各店舗の在庫がなくなり次第終了との由。往復ぶんの交通費があれば、回転ずしでうにひと皿ぶんくらいは注文できるんじゃないかという考えが一瞬頭をよぎったが、無視した。駅に着き、高架下にあるなか卯に身体を滑り込ませた。食券機はどのメニューもグレーアウトしていなかった。わたしは躊躇することなく「天然うにいくら増し増し丼」の「増量」、すなわち「MAX設定」のボタンを押下した。2,590円也。
 
細切りの海苔が散らされたごはんのうえに、別トレイに盛り付けられたうにといくらを、極めて慎重に移動させる。続いて、わさびをといた醤油を、少しずつまわしかける。いくらはつやつやと輝いているが気持ち小ぶりで、まあこれは、想定の範囲内におさまるなか卯のいくらだ。標準メニューの「天然いくら丼」でも食べられる。一方、うに。みずみずしいオレンジ色で、でぶの小指くらいのサイズがある。大粒だ。舌の味蕾みたいな粒々も溶けずに残っており、ほうと感心した。ぱかっと殻を開けて、そのまま取り出したようにさえ見える。先日、新千歳空港で観光客向けだとぶつくさ文句を言いながら食べたうにより、いくぶんちゃんとしていそうだ。ひとつとって口に運んだ。うま。ミョウバンはさほど気にならない。やった。わたしはうに、いくら、うに……とリズムよく食べ進めた。2,590円でこれなら、かなりコスパがいい。「MAX設定」にしただけあって、食べてもなかなかなくならない。あー、うに、うま。うにがこの世で一番好き。本当は磯の香りのする新鮮な塩水うにが好きで、ミョウバンの使われているうにのことはうにと呼びたくないけれども。しかし、このうにはかなり大粒だし、満足度が高い。ほら、口いっぱいに頬張ることができるし、うにといくらの同時食べも可能。口のなかいっぱいに甘さが拡がって濃厚だ。ふんふん、などと考えているうちに、わたしはなんとも言えず悲しくなってきた。悲しみがあろうと、うにを残すわけにはいかないので、もくもくと箸を動かし続けたが、食べ終わるころには泣き出しそうになっていた。その日はさっさと歯を磨いて横になるなり、ふて寝した。
 
わたしには食べると悲しくなる食べものというものがあって、代表的なものはうにと牡蠣だ。どちらも大好物だ。食べられるものなら無限に食べたい。毎日でもいい。そう思ってそう口にするじゃないですか、浅はかだから。でも、どちらも実際に実物をたくさん食べると、悲しくなってきてひどく落ち込む。よりにもよって台風が関東を直撃している日に、牡蠣の格安食べ放題に行ったときのこと。牡蠣屋は薄汚い路地の一角にあり、口が滑っても衛生的とは言い難く、わたしは死をも覚悟した。どうせ死ぬなら好きなだけ食べようと、ポン酢、岩塩、タバスコ、シンプルにそのまま、などと趣向を凝らし、ディズニー映画『不思議の国のアリス』のセイウチもかくや、というほどたらふく生牡蠣を食べたのだが、わたしはだんだんと機嫌が悪くなり、笑顔は消え去った。最後はグロッキー状態になって、わたしはわたしを待ち受ける未来のすべてを呪いながら、嵐のなかを彷徨い帰宅した。念のために補足しておくと、牡蠣は新鮮で美味だった。
 
 
大好物のうにや牡蠣を食べていると、「もったいない」という感情が生まれる。おいしいが高価だし、食べると減っていってしまうからだ。「もったいない」はせつなさや切迫感を生み、満足感は遠ざかる。食べ始める前に予想していたほど幸せになることができず、理由探しが始まる。何ひとつ成し遂げられていない自分が、うにや牡蠣をたらふく食べようとしたからこんな気持ちになるのではないか。自分はうにや牡蠣を堪能できるほど、立派な人間なのだろうか。以降は強制的に、自分の凡百の至らなさについて考えさせられる時間となる。だが一方で、「天然うにいくら増し増し丼」のうにはミョウバンで処理されているし、牡蠣屋だって立地が悪い。なんでこの程度のうにと牡蠣に遠慮しなければならないんだと、今度は逆ギレの気持ちが起こる。どうせなら、うにも牡蠣も産地で新鮮なものを食べたい。「天然うにいくら増し増し丼」を盛り付けるのだって、プラスチックの器なんかじゃなくて国宝の曜変天目を使いたい。考えても仕様のないことが次々と頭に去来し、最終的には東名阪出身者を馬鹿舌だと根拠なく嘲ることで溜飲を下げる羽目になる。しかし、東名阪出身者は進学や就職に有利だから、馬鹿舌と罵るくらいは許されて然るべきだろう。うには捕まえたてをナイフでこじ開けて、殻のなかに漂っている身を、ごみを避けながら指ですくって海水ごとすするのが一番うまいのだ。この経験のないやつに、うにのうまさがわかってたまるか。
 
心の奥底から幸せでありたい。幸せを決めるのは自分自身だから、余計なことは考えないでにっこり笑って大きな口を開け、最後まで笑顔で食べるほうが賢いのだとわかっている。足るを知ることが、東京を生き抜くうえでは重要だ。馬鹿舌の者は幸いであると、キリストが言わないのならばわたしが言おう。でも、わたしはまだしばらくは、愚かで不幸なままでいい。塩水うにしかうにじゃない。


わかしょ文庫
作家。1991年北海道生まれ。著書に『うろん紀行』(代わりに読む人)がある。『試行錯誤1 別冊代わりに読む人』に「大相撲観戦記」、『代わりに読む人1 創刊号』(代わりに読む人)に「よみがえらせる和歌の響き 実朝試論」、『文學界 2023年9月号』(文藝春秋)に「二つのあとがき」をそれぞれ寄稿。Twitter: @wakasho_bunko

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