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本はつながる―『深い河』をあいだにおいて

意図的ではなくても、読んでいる本がつながっていくことはある。
 
『インド夜想曲』アントニオ・タブッキ
『深い河』遠藤周作
『藍色の福音』若松英輔


今のあなたは仮のすがた『インド夜想曲』

『インド夜想曲』はカタクリタマコさんの記事で知った。

こんな紹介文を出されてしまっては、読まないわけにはいかない。
 
この本はインドで失踪した友人・シャビエルを探し、その足跡をたどろうとする「僕」の物語として始まる。
シャビエルはなぜ……、という問いは最後には「僕」とは何者か、という問いに変じる。
インドの旅。インドの風景。
 
長い本ではない。小話が連なっているような感じ。中でも特に、少年とその小さな兄の章が印象的だった。
今の「僕」が「仮のすがた」「幻影」だとすると、
―「アトマン」は、魂はどこへ?
 
本を閉じて、思った。
いったい私は何を読んだのだろうか。
どうにもつかめないまま、手の中を滑り落ちていった。
しかし不思議なのだ。この本を、再訪したい―再読したいという思いが、後から湧いてきた。
「もう一度行きたいなあ」と、過去の旅行を思い出すような感覚。
いつかまた。タブッキのインドを訪れよう。

すべての人を運ぶもの『深い河』

ヨーロピアンにとってのインドが『インド夜想曲』であったとして、
『深い河』には日本人にとってのインドが現れているのかもしれない。
 

↑の花虹さん他、茶ぶどうが敬愛する複数の読書好きな方々が『深い河』を読んでいるという話があり、これは私も、と思った。
新刊でも話題作でもないのに、こうしてあちこちから「読んだよ」「これから読むよ」が聞こえてくることがある。noteは不思議な場所。
 
遠藤周作はほとんど読めていなくて、『死海のほとり』だけ。
これは千船翔子先生が影響を受けたという話を聞いて読んだ。
(千船翔子を君は知っているか 久遠神父がすごく良いぞ これは自慢だが茶ぶどうは色紙に久遠神父を直筆で描いてもらったんだぞ 千船先生お元気ですか?)

読みはじめてすぐに、「本物を、今読んでいる」と感じた。
とんでもなく上から目線なのだが。そうとしか言えなくて。
作品の舞台はだいたい今から40年前だろうか。磯辺夫妻の姿など見ながら、そうか、日本こんなだったか、と。隔世の感。
そして思った。インドとは、何かを探し求める人がたどり着く地なのか。
その「何か」がはっきりしないまま、さまようための地。
 
唯々諾々と盲従することをよしとせず、自分の神を追求する大津の姿勢、「信仰は必ず行いにあらわれる」という生きざまに圧倒される。
本物の信仰は、宗教の枠をはみ出すことが往々にしてある。
マハトマ・ガンジーの言葉が引用されていた。

すべての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ 

この言葉にはある種の真実味を感じる。世界中の人が「そういうこともあるかもしれない」くらいの淡い共通認識を持てば、いくつかの争いは、やむことはないにしろ少しはマシになるのではないか、と思う。
 
ビルマのジャングルをさまよった元日本兵の声も聞こえる。「死の街道」。終わらない地獄の悪夢。
今も、ガザでは飢餓が引き起こされている……そこにいるのは市民なのだ。
 
最後にはアウト・カーストの貧民も、国の指導者も、等しくガンジス河へ―
なんという平等。これだけが、インドの平等なのだろうか。
私には多分、インドは合わないだろう。実際に旅することも、しないほうがいいだろう。
これら2冊の本が読めてよかった。

「読む」ということの秘儀『藍色の福音』

「『深い河』を読み終わったら読む本」として待機させていた本があった。
何とはなしに立ち寄った地元の本屋(駅ビルの)で、なぜか手に取った本。
美しい表紙と、「福音」の一語に引き寄せられた。
 
筆者が『深い河』の磯辺と似た経験をした、ということが書いてあり。
あら、ちょうど読もうと思っていた本では……と。
 
この一冊を読んで、
「作家論」とは私が考えていたより遥かに深い次元に達しうる方法なのだ
と目が開かれる思いがした。
 
茶ぶどうが「テクスト論」派であることはあちこちで言ってきた。(そんなご大層なもんでもない)
(↓↓だいぶテンションの違う記事↓↓)

「テクスト論」は作品を読む際、作者の意図を一切云々しない、という方法である。(と私は素朴に解釈している)
しかし若松英輔が本と向き合う姿勢は全く違う。
彼は著作を通じて、作家その人の姿を見、声を聞き、魂にふれているのではないか。彼の「読む」は、文学の枠を超えた人間学の領域にある気がする。
 
私は「作家論」の浅瀬しか見ていなかった。「人間」のとらえ方の浅さを思い知らされた。
 
本好き、読書好きの方に読んでもらいたい箇所が山ほどあるが、
以下などどうでしょうか。

人は、未読の本からも影響を受ける。日々、本の姿を眺めつつ、いつかその本を手にする日がくることを予感しながら、その関係を味わうのである。さらにいえば、その書名、本の佇まい、そして、それを買おうとした内心からの促しによって、少しずつ人生を変えられている。 

p. 27

どうでしょうか。積読派のみなさん。

読書が、文字を知的に認知することであれば、理解できなかったことから影響を受けることなどありえない。しかし、「読む」という営みが、文字を扉にしつつ、その奥にある意味の空気、意味の香りを感じることでもあるなら、人は知解しなかったことからも何かを受けるのではあるまいか。 

pp.308-309

また曰く。

誰かの世界観ではなく、その人の世界観がなくてはならない。なぜなら世界観なき生涯を送る者は、誰かの世界観を鵜呑みにしている可能性があるからだ。時代、国家、組織の世界観に自らの人生を明け渡すようなことも世の中では日常的に起こっている。 

p.324

「読書」は終わらない

『深い河』、『藍色の福音』を読んだ今、
やはり『インド夜想曲』をまた読みたい、という思いが強まっている。
『インド夜想曲』こそは「目に映らない言葉を蔵した文学」と若松英輔が呼ぶ作品の一つだと思えるからだ。
『インド夜想曲』を再読するそのときには、また別の本も、この輪に連なっているだろう。
 
本はつながるし、循環する。
それは堂々巡りの円を描くというより、恐らく螺旋状に、深まって広がっていく。
 
感想を言語化して人と分かちあうことはできないかもしれない。
それでも、言葉の奥から聞こえる音を聴き、「意味の空気、意味の香りを感じ」、「書き得なかったことの影」を追うような読書ができたら。
 


人が未読の本の姿からも影響を受けるのだとしたら。
たとえ手元になくとも、
そんな本がこの世に存在するという知識だけでも、
「“未”読者」を変えうるのではないだろうか。

2023年12月の本棚

(↓↓こちらもつながった例↓↓)

 

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