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権威への挑戦~最下層からの一矢

「なにが神だ! くらえペガサス流星拳!」
「聖闘士星矢」を一言で要約するセリフがあるとしたらこれだな、と思う。
 
「聖闘士星矢」のテーマのひとつは「既存の権威への挑戦」ではないか、というのが今日のお話し。

少年マンガは「大きいおともだち」も今や普通に読むものだが(私とか)、何と言ってもまずは少年少女の心をつかまなければ話にならない。
では「聖闘士星矢」はどのようにしてあれほどのブームを巻き起こしたのか。多数ある要因の一つと思われるものについて、いいかげんな憶測で云々してみる。
 
※ネタバレあります。
※私は1980年代前半生まれなので、80年代の話は体験したというよりも後から聞いた、なんとなくの知識です。
※特に目新しいことは言っていません。誰でも思いつくような話・切り口です。
 

ヒエラルキーの最下層に位置する主人公たち

「聖闘士星矢」における主人公・星矢たちの属する組織体系を見てみると、見事なピラミッド型縦社会であることが明白である。
・女神(アテナ)
・教皇
・黄金聖闘士
・白銀聖闘士
・青銅聖闘士
 
こういう序列だ。
それにつけても、出色のネーミングじゃないだろうか。
車田先生はネーム・ネーミングがいかに大事かをインタビューで答えていらしたが、さすがに壮観。
まず「聖闘士」って。字面からしてすごいが、これを「セイント」と読ませ、saint=聖人、と重ねたのが天才の所業。ファンタジー要素のあるマンガは特にネーミングが重要で、名づけの成否が作品の成否を左右する。
その点、「聖闘士=saint」は文句のつけようがない。
そして、「黄金」「白銀」「青銅」。説明されなくても序列が一目瞭然。
 
さらに、彼らを率いるポジションを「教皇」とした。少年少女も中学生くらいなら「教皇」はわかる。「ローマ教皇」とかのアレだ。なんかわからんけど神様の次くらいにえらい人。そしていかにも西洋の宗教的な香りがする。「教皇」「聖闘士(セイント)」がギリシャの聖域(「サンクチュアリ」, sanctuary)にいるというのはものすごい説得力ある。
(余談だが、「ヒエラルキー」hierarchyという語はそもそもカトリック教会由来らしい)
 
さて、この完全なる縦社会において、主人公の星矢たち青銅聖闘士はほぼ「最下層」に位置している。一応、雑兵が下にいるが、名前を持ったキャラクターとしては「最下層」と言っていい。
 
少年マンガの王道は、やはり主人公が最下層からスタートすべきものだろう。あの「テニスの王子様」だって、越前リョーマは実力はあるかもしれないが、中学1年生で「下っ端」「ぺーぺー」としてのスタートなのだ。どんなに人気が出そうでも手塚部長を主人公にすることはできない(スピンオフなどでない限り)。
(完全な余談だが、そういう意味では「るろうに剣心」はすごかった。28歳の主人公って……)
 
よく比較される「鬼滅の刃」でも、主人公の炭治郎たちは試験後に最下層の「癸(みずのと)」からスタートしている。
(「鬼滅」は入隊試験といい、「十二」人の柱といい、「星矢」と構造が似ているので並べてみると楽しいはずだ)
ただ、「鬼滅」では、業績に応じてランクアップが可能なんだよね。すごいリアルな話なんだけれども。
 
それに対して、星矢たちはランクアップしない。階級は固定制で、最初に「青銅聖闘士」と決まったらそのまんまである。最後まで。だからこそ「下剋上」が映えるのだ。
 

1980年代の日本の空気を想像する

「星矢」連載中の1980年代は、「子ども」と「大人」の境界が今よりもはっきりしていた時代のではないかと想像する。
そのころ私は幼すぎて、「子ども」ですらなかった。たぶん、「星矢」で想定されていた読者年齢に達していなかった。以下はそんな私のなんとなくの想像(あるいは偏見)で特に根拠はない。
 
現代ではインターネット環境が「子ども」の世界を大きく広げ、「大人」の世界との垣根を半ば壊してしまった。
「子ども」も膨大な知識・情報へのアクセスが可能となった。そればかりでなく、ある程度の年齢であれば発信が可能となった。中学生でも今は9割がSNSを利用しているという。たぶん、彼らはもう肌でわかっている。自分も大人を介さずに社会に対して影響力を持ちうる、ということを。
 
かつては「子ども」のできること・知識のおよぶこと・発信力は、周囲の大人の制限をダイレクトに受けていた。本もテレビ番組も限られたものにしかアクセスできなかったはずだ。そして、これは「子ども」に限らないが、自分の考えを広く発信する機会はないに等しかっただろう。(※あくまで、現在と比べて)
 
そして、「大人」はもっと権威があった。親や学校の先生の支配力は、今よりずっと大きかったろう。体罰も横行していた。意味不明な校則も、もっとあった。
また、今ほど多様な生き方が認められていなかった。偏差値の高い大学に入り、評判のいい大きな会社に入る……そして結婚する。そういう「成功」モデルが一様に押しつけられ、少年少女たちは否応なしに受験戦争に巻き込まれていった。

1980年代、学校は荒れていたときく。私自身、90年代に中学に入学したとき、廊下のど真ん中に十数メートルおきに台に載った花瓶が置かれていたのを目にした。ちょっと前まで、バイクで廊下を走る「不良」「ヤンキー」がいたというのだ。
当時の少年少女が大人からの締めつけに鬱憤をためこみ、非行に走っていた、というよく聞くストーリーはけっこう真実だったんだろうなと私は思っている。
 

「権威」への挑戦の物語

「聖闘士星矢」は少年少女を圧迫する「権威」(親、教師…)への挑戦の物語ととらえることができるのではないだろうか。
だから星矢たちは、いったんお互いに絆を結ぶと、白銀聖闘士を、黄金聖闘士を、そして(偽)教皇を倒す。
(一輝の乱も、父親という権威への反発ととらえることができる。)
星矢たちが十二宮を駆け上がる物語は、そのままヒエラルキーの打破の物語なのだ。
 
星矢たちが真に倒すべきはしかし、黄金聖闘士や(偽)教皇ではない。
究極の権威たる「神々」である。
彼らは女神・城戸沙織とともに、地上を支配しようとする神々と闘う。
(城戸沙織が人間の赤ん坊として地上に生を受けたり、死んで黄泉にくだってハーデス=「死」を打ち倒すのはいかにもキリストっぽいがそれはさておく。)
(黄金聖闘士に「シャカ」がいて「仏陀の手の平」とかなんとか、宗教的にはもう滅茶苦茶だがそれもさておく。)
 
ポセイドン編では、地上を水浸しにして世界を一新し、その支配者たらんともくろむ海神・ポセイドン(これもノアの箱舟・大洪水を思わせる話)と闘う。
そこでわりとサラッと出てくる台詞が、
「なにが神だ! くらえペガサス流星拳―――ッ」である。(JC⑰p113)
 
久々にこのくだりを読んでほとんど感動すら覚えた。
あまりにも「聖闘士星矢」らしすぎる。「聖闘士星矢」を要約する台詞があるとしたらこれだ。
この台詞が全然クライマックスでもなんでもなく、この後ポセイドンにやられまくるのも一周まわって素晴らしい。
 
究極の権威に果敢に(無謀に?)挑む星矢たちの姿は、大人の権威にぎゅうぎゅうに圧迫されていた80年代の少年少女の心に強く訴えたのではないだろうか。
「最下層」から「頂点」へ向かって射る矢。それこそが「聖闘士星矢」という物語の本質なのかもしれない。
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