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『聖闘士星矢』はもはや神話だろ

最近、ハリウッド版『聖闘士星矢』が日本で公開された。
 
私はそもそも映画を見に行く習慣がないし(ハリウッド映画、最後に見たのはまさかジョニー・デップの「チャーリーとチョコレート工場」なんじゃないか疑惑)、原作マンガだけ読んでいれば満足するタイプなので、恐らく見ないで終わるが(応援はしている)(じゃあ見に行かんかい)、
 
『星矢』って作品自体がもう「神話」なんだな
 
という思いを新たにさせられた。
 
※以下は特になんの専門家でもないしろうとの戯言なのでまともに受け止めないでください
(こいつ、何を言ってるんだ……?)くらいの感想が妥当と思われます
 

マンガの30年

私は「作者に言及することだけはしない」というほど徹底したテクスト論者ではないので気軽に作者の話をしてしまうが、
(テクスト論うんたらかんたらの話はこちら↓)

「極端な言い方をすれば、電車の中で読んで面白いと思ってもらえたら、駅に着いた時にそれを捨ててくれと、そこまで言ってみたいんですよね。」

『聖闘士星矢コスモスペシャル』

車田先生はこんなこともインタビューで答えていた。
……なんてロックなんだ。「無頼」ってこれか。かっけえ。
 
さらに、連載後に当時を振り返って、こんなことも言っている。

「オレのネームの作り方は、アイデアを出し惜しみせず、どんどん使っちゃうやり方。……小出しにしないで、毎週出しつくして、次の回はまた無の状態から考える」 

『聖闘士星矢大全』p.103

……なるほどー。
今週が全てだ、と。次週のことは走りながら考える、と。
作者の発言を鵜呑みにする必要はないのだが、めちゃくちゃ納得感あるな。
 
『コスモスペシャル』は1988年発行。私は国会図書館で読んだ(ページ記録忘れ)。
そのころのマンガ読者の何割かは、本当に「駅に着いた時にそれを捨てて」いたかもしれない。
30年以上がたって、マンガの読まれ方は様変わりした(気がする)。
 
平成後期にはインターネットとSNSが発達して、週刊連載漫画ですら読者の厳しい批評眼にさらされるようになった。
伏線の回収ミス・設定のブレ・世界観の不統一・ストーリーの矛盾……
毎週ジャンプを丹念に読みこむ(もちろん捨てずにとっておき読み返す)読者が、すぐにネット上でぶちあげる今日では、漫画家はとてもこんなことは言えないのではないか。
 
現在は、緻密な設定、巧妙に張られた伏線、丁寧な(ときに過剰な)説明がありがたがられている気がする。

解釈の揺れる隙間をつぶす「実況的」語り

最近読んだ本『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』に面白そうな論文が引用されていた。

「2010年代ヒット漫画の饒舌と沈黙」(谷川嘉浩『中央公論』2021年10月号)
……ご想像の通り、『鬼滅の刃』その他が例に挙げられている。
気になったので、図書館で人生初の『中央公論』を借りてみた(暇だな)。
 
前半、「饒舌」パートでは、『鬼滅~』はYouTuber的語り=「実況的な語り」が特徴的だという。
なぜ、実況的・報告的語りを採用するのか?
それは、
「別の解釈や感想が思い浮かばないようにするため」(p.152、以下同)
だというのが筆者の指摘。
「物語への疑問を抱かない、余計な関心を抱かない読み方が、『鬼滅の刃』という物語を支えていると言ってもよい」
そして、あれほど隙間なく、キャラクターの感情・思考を実況し続けるのは、
「解釈の単一性」を維持するためだという。
「解釈に揺れが生じないように、誰でも理解しやすいように、キャラクターたちは自分の感情や行動、判断を報告し続けるのだ。」
 
研究者はすごい。私が『鬼滅~』を読んで(一応ね、全巻読んだんですよ)なんとなーく感じていたことを、そんな風に言い表してくれるなんて。
 
この文章の後半は『違国日記』『ブルーピリオド』に見られる「沈黙的な語り」に焦点が移るが、
(『違国日記』はあっちこっちで引用されていて、気になる……)
私の関心はむしろ、
 なぜ現在、「解釈の単一性」を重視するマンガが受けているのか?
である。
 
もちろん『鬼滅~』は二次創作も大盛況だし、
想像の余地がない物語ではないはずだ。
しかし、話の筋やキャラクターの心情が、解釈の揺れを許さないレベルで説明されていたことも確かだと思う。
 
緻密な設定、巧妙に張られた伏線、丁寧な(ときに過剰な)説明。
……まあ少なくとも、最後の1個については『鬼滅~』は徹底していた。
(いや、悪口じゃなくて……私も楽しく最後まで読んだんですよ?)

隙間こそが『聖闘士星矢』を神話たらしめる

一方、『聖闘士星矢』には、「計画的な話運び」だの「読者に疑問を抱かせない詳細な説明」だのは一切存在しないと言っても過言ではない(言い過ぎやろ)。
 
今週読んで面白いと思ってもらえたらそれでいい。次週のことは走りながら考える。
そんなロックなスタイルで、一貫性や整合性も度外視して、隙間だらけのまま完走したからこそ、
『星矢』はマンガ・アニメ・映画と多ジャンルにおいて派生作品を生み続ける神話的作品となったのである。
 
そう、『星矢』が神話たりえるのは、隙間だらけだからだ。
 
アイオリアが第1話でなぜ雑兵スタイルで闘技場に来ていたのか。
作品内ではなんの説明もない。
そもそもどんな立場であそこにいたのかすら、明示的な説明はない。
 
カミュが最後まで宝瓶宮を守る立場を変えなかったのはなぜなのか。
どんな思いで氷河と戦ったのか。
整合性のある説明はなされない。
 
シオンと童虎のバトルとアテナ神殿のシーンの間は何が起こってたのか。
一切描かれない。
 
展開に応じて次々と新たな設定が追加され、
キャラクターの心情・考えもさほど描写されない。
 
そうしてあちこちにできた「隙間」。
そこにこそ、我ら読者の働く余地がある。
 
神話に滑らかで整合性のある筋が必要か?
登場人物の心情描写が必要か? 
……否!

 
神話は現代の鉄筋コンクリート建築物では断じてない。
パルテノン神殿のごとき結構、骨組みしかないのが神話ではないか。
 
しかし、その隙間だらけ、穴だらけの構造の中に、謎の、魅惑的な彫刻が点在している……
『星矢』はたぶん、そんな作品である。
 
ギリシャ神話が時代を超えて語り継がれ、語りなおされていくのと同じように、
『聖闘士星矢』も語りなおされ、描かれなおされていく。
 

 
愛すべきわが師カミュについて猛った回↓↓


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