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夢の大伽藍へ―川野芽生と山尾悠子

「読んでいる本がつながる」現象は、本好きの方なら何度となく経験してきていると思う。今回は、「幻想文学」の作家さんがたのお話しをしたい。
夢から夢へ渡り歩くような作品たちでもあり、私の文章も普段よりよほど意味不明になっているが、それでもよろしければどうぞ。
 
↓↓もう少し現実的な?文学でつながったお話し↓↓

※断り書き※
以下、作家は敬称略、「さん」をつけていません。これは文学部流?の敬意の表し方なのでお含みおきください。
かつて院でシェイクスピアの翻訳者に「さん」をつけて発話したところ教授に「知り合いじゃないんだから」と指導されたのが忘れられません。普段は「さん」づけもしますが今回はそぐわないので全て敬称略です。
 
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ここ数年で一番大きかった出会いかもしれない、川野芽生。まず、『無垢なる花たちのためのユートピア』を読んで打ち抜かれた。

これはすごい、ずっと追っていきたい作家さんだ、と強烈に感じた。美しいぶん残酷な世界を描いた表題作、そして「卒業の終わり」は衝撃だった。
 
「いつか明ける夜も」を読んだとき、どうもこの感触は山尾悠子、と思ったら、お二人には「往復書簡」があるという。鼻がきいた(比喩が美しくない)。
 
次に『月面文字翻刻一例』を読んだ。こんな文章が、こんな物語が2020年代に生まれえるのか、という畏怖すら感じた。なんという緊張感に満ちた夢想。中の数編にはミヒャエル・エンデみもあった。著者にはエンデも読んでいてほしい。(謎の願望)

『奇病庭園』もすばらしかった。
自らの血をペン先に吸い込ませて仕事をする「売血の徒」たる写字生。
生えてきた角の重みで首が落ちる老人たち。
翼を生やし、赤子を文字通り地に産み落として飛び去っていく妊婦たち。
鉤爪を持つもの、鱗を生やすもの、牙、毛皮、複眼が発達するもの……
 
〈道楽〉の君が地の果て果てから集めた珍しい女たちの小話など特に、あの澁澤龍彦の『高丘親王航海記』を彷彿させるものがあった。川野芽生は澁澤龍彦作品をも偏愛している可能性が高い。まさかこれで通ってきていないなんてことは。
(澁澤龍彦と中野美代子あたりの話もいずれしたいのだが)

川野芽生の作品を3冊読んで感じたのは、「性」に対する根深い嫌悪、憎悪だった。セックスは女性の人間性を貶めるものだという意識が伝わってくる。自分(=女)を蹂躙する男への激しい憎悪があり、生殖の忌避があり、それはすなわち世界の否定である……
 
『奇病庭園』で驚いたのが、同時に平行して読んでいた山尾悠子「パラス・アテネ」(『増補 夢の遠近法』所収)と共通のモチーフが複数出てきたこと。狼が跳梁する都。狂人。糸を吐き、繭ごもる人間。いや、驚くほどのことはない、愛読しているのは間違いないのだから。
 
「パラス・アテネ」ときたら、痺れるほどかっこよかった。山尾悠子は川野芽生よりさらに硬質で、見通しがきかない、良い意味で。氷山の一角を見せられているような。
そろそろ山尾悠子の話に移ろう。
 
 
昨年一番たくさん読んだ本は山尾悠子の『ラピスラズリ』だった。
2回読んだ。再読自体が珍しい私には、1年以内に2回同じ本を読むというのは天変地異レベルである。
(今年はもちろん、もっと再読を増やすつもりである)

2010年に初めて読んだときは話の筋すらよくわからなかった。でも不思議とひかれた。
2016年にも読んだが、なにぶん間が空きすぎ、中身をほとんど覚えておらず、やはりわからなかった。スケートリンクに何度行っても、毎回レベル1からスタートするような感じ。(運動音痴の比喩)
でもなぜだか好きなのだった。
魅惑的な、不思議な光景が眼前で次々と繰り広げられるも、その意味はわからない。判然としない。ただただ、呆然と吸い寄せられる。
 
この本、『ラピスラズリ』の単行本は、モノとしての佇まいもよい。
図書館で借りると、函入り本の函から出された状態で貸し出される。外函はどんなだろうと思う。函の中身も美しい青……ラピスラズリ、「青金石」。

この忘れても忘れても忘れ難い本を、2023年は2度読んだ。
まず3月。そして11月。これでようやく、何が起きているのか少しわかった。
冬眠者たちが眠る、冬寝室。館の中の廃墟。痘瘡。煙による消毒。箱詰めの人形たち。ゴースト。

細部まで偏執狂的な熱心さで描きこまれ、意味ありげなのにもどかしく意味のわからない画面の絵解きに心を奪われて、あるいは視線をさまよわせながら実際には放心していただけなのかもしれなかったのだが

pp.7-8

『ラピスラズリ』を読むということがまさにそのような行為とも思われた。
 
次はまた3月、春の目覚めの季節に読もう。
ついに文庫版を買ったのだ。
それでもきっとまた、図書館で、函なしの単行本を借りてしまう気がする。函つきの本は中古でしか手に入らないが、いつか入手したい。
 
山尾悠子の『歪み真珠』は神田の古書店街で函入り本を入手した。まだ開いてみてもいない、これは正真正銘の(図書館リストなどではない)積読である。
前に借りて読んだのは2016年なのでほとんど忘れている。素敵だということだけ覚えていれば事足りるのである。

未読の山尾悠子作品は山ほどあるが、今気になっているのは、『山尾悠子作品集成』。ここに、「パラス・アテネ」の続編(4部作構想・未完!)が載っているという。
本書についたアマゾンレビューがまたすごい。アマゾンレビューには唾棄すべきものも多くあるので普段あまり目に入れないが、この本についてはご本尊の威光あらたか、わからないならば黙って去れとばかり、半端者は寄せつけぬ風情。
「この文章に埋もれて死にたい」
「この全集があるなら、他の本はなくしてしまっても構わない」

……おお。やはり気になる。私も読んでひれ伏したい。
しかし766ページ。766ページ。長い。重い。
それでも、気になる。
 
本は丸ごと読まないとなんとなく気がすまないので、あと一歩が踏み出せない。
いいじゃないか、一部だけ読んだって。

月と狼神と繭が赤くなる時、すなわち創世記の神々が地上から滅びて千年ののちにこの世に現れる破壊神の伝説。その神は、人間たちに横顔だけを見せて通り過ぎていった創世の神々には似ず、闇の奥に飢餓の双眼を見開いて真向から人の世を見すえる神である。

p. 223 『増補 夢の遠近法』

玉座の背後に密かに息づく赤い繭―
現れるのは破壊神か、救世主か。
いずれ、この目で確かめねばなるまいよ。

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