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歌詞読んでみた lyric.1 / エッセイ「天国育ち」

学生時代は1週間に1冊とか読んでいたのに、大人になってめっきり読書をしなくなった。ちなみに去年最後まで読みきった本は1冊だけである。わたしの場合は学生時代の主な読書時間だった通学時間がなくなったのと加齢による集中力の減退が原因だと思うが、むかしより本を読まなく/読めなくなるのはわりと大人あるあるだとおもっている。

とはいえ読書をしないからと言って、日常生活で特別大きな問題にぶち当たるわけでもないのだが、わたしの場合こうして趣味で文章を書いている。出力のためには入力が必要不可欠だし、言語化の勉強という意味でも読書の必要性はひしひしと感じているところである。ということで1月、積んでいた本を今年こそ読むぞ!と意気込んでみたものの挫折。節目あるあるである

この衰えた文字を追って理解する筋肉をどうしようかと色々思案した結果、ふだん好きで聞いている音楽、その歌詞を読むことにした読書代わりに歌詞を読み、より理解するためにノートに書き起こす。書き起こした後は歌詞の解釈や文法的テクニックなど自分なりに気づいたことを隙間に書き込んでいる。そしてこれを1日1曲、毎日しようと決めた。リハビリみたいなものである。2月半ばから始めて2月28日時点、16曲ほど書き起こしたのだがこれが案外メチャクチャ楽しい。30分ほど音楽だけが流れる世界に没頭できて、実際に手を動かすことで作詞を追体験してるような感覚になれる。終わった後わからない言葉を調べて、新しい知識を得られるところもおもしろい。とても良い趣味を見つけてしまった。

「歌詞読んでみた」と題してその月に読んだ歌詞の中から数曲抜粋し、その曲についてのコラムと特に気になった歌詞にまつわるエッセイをまとめて月末に連載することにした。楽しんでいただけたら幸いです。では。


水樹奈々『ダーリンプラスティック』 
作詞:藤森聖子

この習慣の第一歩目、まずは大好きな水樹奈々からということで選曲。
冒頭に「甘いバニラ インセンス」とあるが、【インセンス(incense)】には「香、芳香」や「香を嗅ぎ試みる、香を聞く」という意味がある。華道、茶道にならぶ日本三大芸道の1つ、香道の世界では香りを嗅ぐことで自分の心が様変わりする様子に耳を傾けることを「香を聞く」と言うのだそう。

この歌詞には2人の思い出が染み込んだ風景や匂いや物品が多数登場するが、左利きの彼の声だけが欠け落ちてしまっている。個人的に”声”というのは最初に忘却されてしまうその人の一部だとおもうので、「声が聞きたくなった」というのは、彼との記憶が消えかけてしまってることを示唆してるのではないかと解釈した。消えかける彼の声に対し、諦めたような「聴こえてくるよ 君の歌が」とサビを終えていくのは忘却に対するせめてもの抵抗なのだろう。

BUMP OF CHICKEN『Stage of the ground』
 作詞:藤原基央

中学生の時『天体観測』目当てでTSUTAYAでレンタルしたアルバム『jupiter』を聞いて好きになった曲。この曲で書き起こすことで作詞の凄さに気づける実感と楽しさを得られた。

孤独の果てに立ち止まる時は 水筒のフタを開ければ
出会いと別れを重ねた 自分の顔がちゃんと写る

BUMP OF CHICKEN『Stage of the ground』

挫折した君は那由多の宇宙にいて365日360°いつだってどこでも道だと背中を押すこの曲はカメラワークが素晴らしく、単語によって寄り→引きなどを自在に操るのだが、なかでも特にここ。「水筒」の1アイテムだけでうつむく君の背中と顔を両方成立させている。すごい。

wikipediaによると、「那由多」とはドイツの物理学者・マックスプランクによって提唱された観測可能な宇宙にまつわる極めて大きい単位系・プランク単位系で表す時にも登場する言葉らしく、プランク単位系は「神の単位」とも言及されるそうだ。カッコいい。

藤圭子『圭子の夢は夜ひらく』 
作詞:石坂まさを

<公式音源なし>

TV番組『マツコの知らない世界』の「昭和歌謡の世界」でゲストのJUJUとマツコがこの曲は今の若い人にも刺さるとおもうと語っていた。マツコの知らない世界とは。藤圭子といえば宇多田ヒカルの母親であるのだが、実際に歌を聴くのがこれが初めてだった。

黒檀の気品に似た藤圭子のドスの効いた歌声は鬱屈とした昏さを何倍にも増幅し、賽の河原がごとく厭世的に夜の世界で夢を唄っている。この歌詞はまるで藤圭子が黒く塗り潰すための線画のよう。

今回はこの曲と現代の若者とをつなげたマツコたちが見出したであろう共通点についてコラムを書いていく。

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エッセイ:「天国育ち」

崩壊した泡沫の瓦礫の中から生まれたわたしはもう若者というカテゴリと決別すべき年頃に差し掛かっているが、それでも竹原ピストル『よー、そこの若いの』の「よー、そこの若いの 俺の言うことを聞いてくれ 俺を含め誰の言うことも聞くなよ。」にムカつくくらいにはまだ若輩者である。

先日こんな対談をみた。漫画家・山田玲司と文化人・岡田斗司夫が”希死念慮”について考察していくのだが、現代の若者をとりまいている不安に煽られる状態、そしてそれを引き起こしてる原因についての考察がおもしろかった。

スマホさえあれば何でも望みが叶う環境にいながら何故死にたいのかと疑問におもう1958年生まれの岡田氏にとって現代は到達した天国だ、逆に天国に生まれた人間はあとは失うしかない、と山田氏は云う。わたしはここに未来への不安を付け加えたい。

ここで指摘された未来や喪失への恐怖感はわたしの周りでホットな話題であるアイドルの卒業や体制の変更がまさにこれである。卒業によって自分の観測できないところへ行ってしまうかもしれないし、体制の変更によってグループの好きな部分が無くなってしまうかもしれない。このニュースで動揺するファンたちを見守っていると、意見は違えどほとんどが不安を抱えているように見えてしまった。

「エモい」「ノスい」に代表されるノスタルジック主義は失うかもしれない不安が生み出した抗体的価値観であり、価値をゼロに近づけることで失う痛みもゼロにしようとする働きによってゆるやかに消えてゆくための支度である。女子大生が女子高生に向かって「若いね~」と年増ぶったりするのを大学キャンパスでよく見かけたが、これは若者に限った話ではなく、うるせえジジババがよく言う「俺たちが若い頃は~」的な回顧録もこれと同様であるはずだ。

失われた30年一期生であるわたしも一方で天国育ちである。生まれたときからマクドナルドもピザもあったし、中学生の頃にはインターネットが使えて友人たちと「おっぱい 女」で検索したし、中1ではじめて持った携帯電話は今スマートフォンである。

幸せなことにわたしは希死念慮を感じたことはないけれど、ひとつそれに似た心当たりがあり、最近お金に対して無頓着になって金銭感覚が狂ってる気がしている。ふだんそれなりに勤勉に労働をしているのでそれなりに蓄えはあるのだが、100円だろうが1000円だろうが10000円だろうが、まったく同じ感覚で扱ってしまい収支計算をすることなく日常生活を送っている。

これもおそらく未来に対する期待値の低さがもたらした故障であり、わたしの場合は金銭感覚に現れてるということなのだろう。

芥川龍之介の時からぼんやりと「死にたい」と思うある一つの流れがバブル崩壊以降常に不安な状態がつづき、孤独に陥ることで自家中毒的に回ってしまう、その孤独はインターネットの普及によって加速し、無痛主義によってさらに孤独を深めていく。

対談・山田玲司 希死念慮と反出生主義とドゥーマー 岡田斗司夫ゼミ#521(2024.2.18) 4:55~を要約

この辺りの考察は非常に親近感があり、気づいてみれば骨身に染みる痛い言葉ばかりだった。スパッと関係を切ることはないけれど、愛想よくニコニコと人に嫌われないよう痛みを最小限になるような態度が板についてしまっている自分がいることに気づき、それほど無自覚に無痛主義のうちに生活をしていたのだと気づかされた。そしてそれをやめたいと思った。

すこしでもマシな自分になって、未来のパートナーが見つかればいいな。ポジティブに失っていきたい。

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以上、2月度の「歌詞読んでみた」になります。もしおすすめの歌詞があれば本稿コメントやXのDMにて教えていただけるととても嬉しいです。それではまた来月に。

おしまい。

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