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ぶらり関西みて歩記(あるき)

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東海道は五十三次、すなわち街道沿いに53の宿場があったというのが一般的な認識だ。ところが実際には五十七次あって、枚方は56番目の宿場として栄えていた。
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ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第7回〕 逢坂 ■七坂で唯一の国道 天王寺七坂のうち最も南にあり、逢坂と書いて「おおさか…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第6回〕 天神坂 ■安居神社へ通じる天神坂 安居天神(安居神社)へ通じる坂道であること…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第5回〕 清水坂 ■松尾芭蕉も訪れた 有栖山清水寺の北側、大阪星光学院との間にあるのが…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第4回〕 愛染坂 ■坂の名は愛染さん由来 その名の通り、坂を上りきったところにある愛染…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第3回〕 口縄坂/学園坂 ■口縄とは「蛇」のこと 天王寺七坂それぞれの名称のうち、5つ…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第2回〕 源聖寺坂 ■市電の敷石を石畳に転用 名の由来は、坂の上り口にある源聖寺である…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第1回〕 真言坂 ■七坂とはいうものの…… 大阪市天王寺区の夕陽丘地区と呼ばれる一帯は寺町で、江戸時代に大坂城下から移転させられた寺院が多く集まっている。実際に訪れたら一目瞭然、坂がたいへん多い地域でもある。全ての坂が西へ向かう下りになっているのは、このあたりが上町台地の西辺に当たるからだ。太古の大阪は、これらの坂の向こうに海が広がっていたのだ。 数ある坂の中でもとりわけ有名なのが「天王寺七坂」と称される七つの坂で、それぞれ付近の寺院に由来する名称が付いている。また例

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第14回(終)〕 与謝野晶子 ■不倫がキッカケで歌壇デビュー? 与謝野晶子は明治11年12月…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第13回〕 三好達治 ■架空の町で生まれた? 明治33年8月23日、大阪市東区南久宝寺町(現…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第12回〕 川端康成 ■700年続く名家 「伊豆の踊子」「雪国」「古都」「千羽鶴」など数々の…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第11回〕 薄田泣菫(すすきだきゅうきん) ■中学を中退し独学で勉強 明治10年5月19日、岡…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第10回〕 宇野浩二 ■父の急死で大阪へ 本名を格次郎といい、明治24年7月26日、福岡県南…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第9回〕 織田作之助 ■生まれたときは「鈴木作之助」だった 大正2年、大阪市東区東平野…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第8回〕 折口信夫 ■10代で才能が開花 折口信夫(おりくちしのぶ)は明治20年2月11日、大阪府西成郡木津村(現、大阪市浪速区)に生まれる。生家は戦災で焼失してしまい、今は残っていない。 小学校時代から、古典をはじめ広い分野の文学に親しんだ。天王寺中学時代には校友会誌「桃陰」に「都賀野の牡鹿」という作品を発表したり、「文庫」「新小説」といった文芸誌に投稿した短歌が入選したりするなど、早くから奇才ぶりを発揮している。 一人旅で鳥坐神社を訪れた13歳の夏、9歳上の僧侶