創稿舎@Book writer/#取材ライター

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フリーランスのブックライター。 創業経営者や起業家のサクセスストーリー、インタビュー記事や取材記事などを書いています。 WEB記事やオウンドメディアのコンテンツづくり、本の執筆は当方へご相談ください。商業出版と自費出版どちらにも対応します。 #ライター集団ことづて

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投稿をいったん削除して、コンテンツを整理いたします。

フォロワーの皆さん、いつもご覧いただきましてありがとうございます。 ご覧になってお分かりのように、テーマを増やしすぎて更新に手が回っていない状態です。 更新が停滞している状態を続けるより、いったん整理することといたします。 投稿済みのコンテンツにつきましては、マガジン・単発を問わず、一部を除きいったん全削除いたします。 その後、テーマをなるべく1本化し、投稿内容も再編集して、順次投稿しなおします。 作業はGW中を予定しておりますが、時間ができ次第前倒しで進めてまいります

    • ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

      〔第7回〕 逢坂 ■七坂で唯一の国道 天王寺七坂のうち最も南にあり、逢坂と書いて「おおさか」と読む。 逢坂は「逢坂の関」に由来する説、聖徳太子と物部守屋が仏法について討論した合法四会に由来する説などがあり、逢坂のほか「合坂」「相坂」と表記する文献もある。 逢坂は、一心寺の北を東西に走る国道25号線そのものであり、ほかの坂のように寺院に挟まれた石畳や石段といった風情はない。 平安時代には、坂の上り口にあたる天王寺公園北口交差点のあたりまで海が迫っていた。当時は馬車馬でも音

      • ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

        〔第6回〕 天神坂 ■安居神社へ通じる天神坂 安居天神(安居神社)へ通じる坂道であることから、この坂は天神坂と呼ばれる。石畳が美しく、上るにつれて左へゆるやかにカーブする景色の変化に富んだ坂だ。 江戸時代の大坂では、上町台地の周辺から良質の水が湧きだしており、天王寺七名水(七名泉)と呼ばれた。この湧水を汲んできて売り歩く「水屋」という商売もあって、よく売れたらしい。 安居神社の鳥居前にも「相坂の清水」と呼ばれる名水処があった。平成13年、坂の上り口に、当時の湧き水の雰

        • ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

          〔第5回〕 清水坂 ■松尾芭蕉も訪れた 有栖山清水寺の北側、大阪星光学院との間にあるのが清水坂だ。下から見上げると右側の3分の2が幅の広い石段、左側3分の1がスロープになっている。しかも坂道の前後には数本の石柱が設置されており、自動車は通れない。 坂道の左右には、清水寺と大阪星光学院の石垣がある。おそらく景観を意識して同じ石が使われているのだろうか。統一感が美しい。 松尾芭蕉は元禄元年、この地を訪れ「松風の軒をめぐりて秋くれぬ」と詠んでいる。星光学院内の「芭蕉園」に、

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        • ぶらり関西みて歩記(あるき)
          32本
        • 雑記帳
          5本
        • フリーライターはビジネス書を読まない
          76本

        記事

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

          〔第4回〕 愛染坂 ■坂の名は愛染さん由来 その名の通り、坂を上りきったところにある愛染堂勝鬘(しょうまん)院に由来する。 まだ元号がなかった西暦593年(推古天皇元年)、聖徳太子は敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる四天王寺を建立した。現在の勝鬘院が建っている場所も、当時は四天王寺の境内だった。 施薬院では薬草が栽培され、病を患う人々に分け与えられたという。社会福祉施設発祥の地ともいえるのだ。 勝鬘院の本堂には愛染明王が祀られ「愛染堂」とも呼ばれることから、親し

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

          〔第3回〕 口縄坂/学園坂 ■口縄とは「蛇」のこと 天王寺七坂それぞれの名称のうち、5つは寺院に由来しているが、口縄坂はその形状に由来している。 「口縄」とは大阪の古い言葉で「蛇」を意味し、坂の下から見上げると蛇の腹に似ていることから「口縄坂」と呼ばれるようになったとされている。しかし実際には「道が蛇のように曲っていた(現在の坂は曲っていない)」「大阪城を築城するときに縄を打ち始めた場所」「坂の上り下りが大変なので縄を手繰って往来した」など、いくつかの説がある。 坂の

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

          〔第2回〕 源聖寺坂 ■市電の敷石を石畳に転用 名の由来は、坂の上り口にある源聖寺である。天王寺七坂の名は付近にある寺院に由来するパターンが多い。 149メートルある源聖寺坂は2つの町にまたがっていて、西側(坂の下)が天王寺区下寺町1丁目、東側(坂の上)が同じく生玉寺町となっている。 上り方向から見ると、始めはなだらかな石畳になっており、途中から石段に変わってやや東南東に向きを変える。そのため下り方向を眺めると、変化に富む景色を楽しめる。ちなみに上り口から10メートル

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

          〔第1回〕 真言坂 ■七坂とはいうものの…… 大阪市天王寺区の夕陽丘地区と呼ばれる一帯は寺町で、江戸時代に大坂城下から移転させられた寺院が多く集まっている。実際に訪れたら一目瞭然、坂がたいへん多い地域でもある。全ての坂が西へ向かう下りになっているのは、このあたりが上町台地の西辺に当たるからだ。太古の大阪は、これらの坂の向こうに海が広がっていたのだ。 数ある坂の中でもとりわけ有名なのが「天王寺七坂」と称される七つの坂で、それぞれ付近の寺院に由来する名称が付いている。また例

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          〔第14回(終)〕 与謝野晶子 ■不倫がキッカケで歌壇デビュー? 与謝野晶子は明治11年12月7日、堺県和泉国第一大区甲斐町(現、大阪府堺市堺区甲斐町西1丁)にある老舗の和菓子屋「駿河屋」の三女として生まれた。 晶子の本名は「鳳しよう」といい、晶子の名は「しょう」から「晶」の字を当てたといわれている。 明治維新の影響で多くの商家がそうであったように、鳳家が営む駿河屋は経済的に困窮していた。そのせいで晶子の誕生は必ずしも祝福されたわけではなかったようだ。それでも幼いころ

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          〔第13回〕 三好達治 ■架空の町で生まれた? 明治33年8月23日、大阪市東区南久宝寺町(現、中央区南久宝寺町)の生まれだが、自叙伝では西区西横堀町で生まれたと書いている。ところがこの町は、当時も今も実在しない。 尋常小学校時代は病弱で欠席しがちだったが、読書が好きで高山樗牛、夏目漱石、徳冨蘆花などを読み耽ったという。府立市岡中学校(現、市岡高校)へ進学すると俳句に夢中になり「ホトトギス」を購読した。 しかし家業の印刷業が傾いたため、中学を2年で中退した達治は、学費

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          〔第12回〕 川端康成 ■700年続く名家 「伊豆の踊子」「雪国」「古都」「千羽鶴」など数々の名作を世に送り出し、その名が世界にも知れ渡っている川端康成は、明治32年6月14日、大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現、北区天神橋 1丁目)で生まれた。 川端家は、北条泰時の孫・川端舎人助道政を祖先にもつ名家で、康成は31代目にあたる。 父・栄吉は開業医だったが、経営が思わしくないうえに肺を病んでいた。しかも無理を重ねて病状が重くなったため、康成が1歳7カ月のときに妻(康成

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          〔第11回〕 薄田泣菫(すすきだきゅうきん) ■中学を中退し独学で勉強 明治10年5月19日、岡山県浅口郡大江連島村(現、倉敷市連島町)に生まれ、本名を淳介(じゅんすけ)という。  少年時代は読書好きで、高等小学校時代には、雑誌に詩文を投稿したこともある。 岡山中学校(現、朝日高等学校)を2年で中退して上京した淳介は、上野の図書館に通いながら独学で勉学に励んだ。 明治30年、初めて「泣菫」を名乗って「新著月刊」に投稿した13篇の詩「花密蔵難見(はなみつにしてみえがた

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          〔第10回〕 宇野浩二 ■父の急死で大阪へ 本名を格次郎といい、明治24年7月26日、福岡県南湊町(現、福岡市中央区荒戸1丁目)に生まれる。父の六三郎は中学教師を兼任しながら師範学校で国語・漢文・習字を教える教育者だったが、浩二が3歳のときに脳溢血で急死している。 7歳上の兄と一緒に母親に連れられ、大阪の親類を頼った。だが1か所に落ち着くことはなく、一家は親類の間を転々とする。ようやく母の兄がいる宗右衛門町に落ち着いたのは、浩二が8歳の頃であった。 天王寺中学校(現、

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          〔第9回〕 織田作之助 ■生まれたときは「鈴木作之助」だった 大正2年、大阪市東区東平野町7丁目(現、天王寺区上汐4丁目)で仕出し屋を営む夫婦のあいだに生まれたとき、作之助の姓は「鈴木」だった。 両親が母方から結婚に反対されていたため婚姻届けを出しておらず、母親が織田姓を名乗れなかったのだ。織田姓になるのは、昭和元年に両親が正式に入籍してからである。 作之助は大阪市立東平野第一尋常高等小学校(現、大阪市立生魂小学校)から旧制大阪府立高津中学校(現、大阪府立高津高等学校

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

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          〔第8回〕 折口信夫 ■10代で才能が開花 折口信夫(おりくちしのぶ)は明治20年2月11日、大阪府西成郡木津村(現、大阪市浪速区)に生まれる。生家は戦災で焼失してしまい、今は残っていない。 小学校時代から、古典をはじめ広い分野の文学に親しんだ。天王寺中学時代には校友会誌「桃陰」に「都賀野の牡鹿」という作品を発表したり、「文庫」「新小説」といった文芸誌に投稿した短歌が入選したりするなど、早くから奇才ぶりを発揮している。 一人旅で鳥坐神社を訪れた13歳の夏、9歳上の僧侶

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

          〔第7回〕 井原西鶴/直木三十五 ■一昼夜に千句を詠んだ西鶴 江戸時代の初期に活躍した井原西鶴は、裕福な家に生まれたといわれているが、詳細は明らかでない。  俳諧の道に入ったのは15歳頃で、談林派の西山宗因に師事した。 一昼夜かけてたくさんの句を詠む「矢数俳諧」に挑戦したときは、なんと1000句を詠む「独吟一日千句」を達成。これを機に「矢数俳諧」ブームが起こり、たびたび記録が更新されながら大いに盛り上がったという。 ■浮世草子で流行作家に 西鶴の創作活動はやがて浮

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