見出し画像

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第9回〕
織田作之助

■生まれたときは「鈴木作之助」だった

大正2年、大阪市東区東平野町7丁目(現、天王寺区上汐4丁目)で仕出し屋を営む夫婦のあいだに生まれたとき、作之助の姓は「鈴木」だった。

両親が母方から結婚に反対されていたため婚姻届けを出しておらず、母親が織田姓を名乗れなかったのだ。織田姓になるのは、昭和元年に両親が正式に入籍してからである。

作之助は大阪市立東平野第一尋常高等小学校(現、大阪市立生魂小学校)から旧制大阪府立高津中学校(現、大阪府立高津高等学校)を経て、現在の京都大学教養部の前身である第三高等学校文科甲類へと進学する。第一尋常高等小学校が輩出した初の三高生ということで、校長から「入学式には、児童総出で見送りたい」と申し出があったという。

口縄坂にある織田作之助文学碑

■文学の道へ

三高時代は岸田国士の戯曲に傾倒して劇作家を目指し「嶽水会雑誌」に戯曲「饒舌」を発表したこともあるが、やがてスタンダールに魅せられて小説家を志す。

昭和9年、卒業試験の最中に喀血した作之助は、休学して白浜で療養した後に復学を果たす。だが、勉学への意欲はすっかり失っていた。

この頃に、のちの妻となる宮田一枝と同棲生活を始める。勉学への意欲は失せたままで、町をぶらぶら歩きまわり、やがて学校にも出席しなくなったため昭和11年に出席日数不足でとうとう退学してしまった。

この頃から作之助の作家活動が始まる。三高時代に創刊した同人誌「海風」に発表した「雨」が武田麟太郎に注目されたのをはじめ、同誌に掲載した「俗臭」が室生犀星の推薦で昭和15年の芥川賞候補になっている。そしてメジャーデビューを果たした作品が「夫婦善哉」だ。これが改造社の第1回文芸推進作品となって「文芸」に再録されたことで、本格的に文壇デビューを果たした。

この間、作之助は一枝と挙式して堺市へ移り住み、日本織物新聞社や日本工業新聞社(現、産業経済新聞社)で勤務している。

戦時中には「青春の逆説」が発禁処分に遭いながらも無頼派のひとりとして活躍し、ファンから「おださく」の愛称で親しまれた。

■取材先で結核に倒れる

昭和19年、一枝が癌で他界する。その2年後「六白金星」「アド・バルーン」「世相」「競馬」などを発表して流行作家としての名声を得ていた作之助は、笹田和子と再婚した。同じ年、読売新聞に連載していた「土曜夫人」の舞台が東京になるため、取材を兼ねて上京する。

だが、のんびりと取材旅行に没頭できる環境ではなく、生活は多忙を極めた。その無理が祟ったのか、学生時代に患っていた結核で大量喀血して入院を余儀なくされる。容態は一進一退を繰り返したが回復することはなかった。翌22年1月10日、永眠。33歳だった。

大阪にこだわりをもち、大阪庶民の暮らしを描き続けた「おださく」は今も大阪の人たちに愛され、文学碑が随所に建てられているほか、生国玉(生國魂)神社の境内には銅像も建てられている。

正弁丹吾亭前にある織田作之助文学碑

●織田作之助文学碑

口縄阪/地下鉄谷町線・四天王寺前夕日ヶ丘駅2番出口から徒歩3分、松屋町筋と谷町筋の間。

法善寺/地下鉄・難波駅15B出口から徒歩5分、「正弁丹吾亭」前。

#大阪

#文豪

#作家

#文学

#文学碑

#織田作之助

#オダサク

#夫婦善哉

#生玉神社

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?