見出し画像

ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第11回〕
薄田泣菫(すすきだきゅうきん)

■中学を中退し独学で勉強

明治10年5月19日、岡山県浅口郡大江連島村(現、倉敷市連島町)に生まれ、本名を淳介(じゅんすけ)という。 

少年時代は読書好きで、高等小学校時代には、雑誌に詩文を投稿したこともある。

岡山中学校(現、朝日高等学校)を2年で中退して上京した淳介は、上野の図書館に通いながら独学で勉学に励んだ。

明治30年、初めて「泣菫」を名乗って「新著月刊」に投稿した13篇の詩「花密蔵難見(はなみつにしてみえがたし)」が、詩壇へのデビューとなる。

■20歳代で日本を代表する詩人に

22歳のとき大阪の金尾文淵堂から刊行された「暮笛集」が与謝野鉄幹から激賞された。これがきっかけとなり「島崎藤村や土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人」や蒲原有明ととともに「象徴派詩人」とも呼ばれた。

23歳から29歳までの間に「公孫樹下にたちて」「白羊宮」などの詩集を毎年のように発表し続け、金尾文淵堂が発行する文芸誌の編集にも携わった。

詩人として最大の功績は「新体詩」と呼ばれる文語定型詩を発展させたことで、29歳のときに発表した「白羊宮」はその集大成ともいわれている。

薄田泣菫文学碑

■詩人から随筆家へ

詩人としての活動は41歳で終え、その後は小説を書いた時期もあるが、主として随筆を書くようになる。大正元年8月、大阪毎日新聞社に入社した。大正5年から連載を始めた「茶話」は、博識で話術の巧みだった泣菫の文章が人気を呼び、同年に随筆集「茶話」として出版され、大正7年「後の茶話」、大正8年「新茶話」と続くのである。

泣菫の業績で忘れてはならないのは、毎日新聞社の学芸部長をやっていた頃に選抜高等学校野球大会の前身・選抜中等学校野球大会歌「陽は舞いおどる甲子園」を作詞したことである。泣菫が作詞、陸軍戸山学校軍楽隊が作曲して、昭和9年に制定された。

戦後は歌詞の一部を変更して歌い継がれ、4年連続で開会式の入場行進曲に使われたり毎日放送のセンバツ中継のテーマ曲に使われたりした。昭和37年の第34回大会で坂本九の「上を向いて歩こう」が入場行進曲に使われてからは、前年の流行曲が行進曲にアレンジされる慣習が定着した。そのため平成4年の第64回大会を最後に「陽は舞いおどる甲子園」は姿を消した。

その後、公の場で演奏されたのは平成20年3月22日、第80回大会を記念して行われたメモリアルイベントが最後である。

泣菫は大正12年に健康上の理由で毎日新聞社(大阪毎日新聞社から社名変更)を退職した後、パーキンソン病と戦いながら創作活動を続けていた。だが、昭和20年10月9日、68歳の生涯を閉じた。

文学碑は、若き日の泣菫が散歩を楽しんだと思われる東平北公園の中に建てられている。

●薄田泣菫文学碑:アクセス/地下鉄谷町線または千日前線、谷町九丁目駅。近鉄難波線、大阪上本町駅。いずれも8番出口から徒歩5分。東平北公園内

#大阪

#文豪

#作家

#文学

#文学碑

#薄田泣菫

#与謝野鉄幹

#毎日新聞社

#選抜高等学校野球大会

#甲子園

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?