見出し画像

ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第3回〕
口縄坂/学園坂

■口縄とは「蛇」のこと

天王寺七坂それぞれの名称のうち、5つは寺院に由来しているが、口縄坂はその形状に由来している。

「口縄」とは大阪の古い言葉で「蛇」を意味し、坂の下から見上げると蛇の腹に似ていることから「口縄坂」と呼ばれるようになったとされている。しかし実際には「道が蛇のように曲っていた(現在の坂は曲っていない)」「大阪城を築城するときに縄を打ち始めた場所」「坂の上り下りが大変なので縄を手繰って往来した」など、いくつかの説がある。

口縄坂

坂の途中に「大阪府立夕陽丘高等女学校跡碑」がひっそりと建っている見た感じは真新しい。最近設置されたのだろうか。

夕陽丘高等女学校は、現在の大阪府立夕陽丘高等学校の前身である。明治39年に大阪府立島之内高等女学校として開校し、その3年後に大阪府立夕陽丘高等女学校と改称され、昭和9年に夕陽丘へ移転した。

戦後の昭和23年には学制改革によって男女共学となり、大阪府立夕陽丘高等学校に改称された。尚、すぐ近くにある大阪夕陽丘学園高等学校(私立)とは別の学校である。

■七坂にカウントされない「第八の坂・学園坂」

天王寺七坂には幻の「第八の坂」がある。

松屋町筋側にある下寺町と谷町筋側にある六万体の間をS字に走る坂で、昭和12年の都市計画道路としてつくられた。道路沿いに大阪女子学園(現、大阪夕陽丘学園高等学校)があったことから「学園坂」と呼ばれるようになったという。

今では自転車用のレーンが設けられていて、子供を乗せたママチャリのお母さんでも安全に走れるようになっている。

天王寺七坂は途中から階段になっていて車が通れなかったり、あるいは車が通れても道幅が極めて狭かったりするのに対し、学園坂は初めから車道だった。そのため坂を緩やかにする必要があって蛇行させているものと思われる。

学園坂

■江戸時代に活躍した先人たちの墓所が集まる

口縄坂の近辺には、江戸時代に活躍した先人たちの墓所が多く集まっている。浄春寺には暦学者・麻田剛立、画家・田能村竹田、春陽軒には国学者・尾崎雅嘉、太平寺には医家北山寿安らなど。また、口縄坂は作家・織田作之助が最も愛した坂といわれており、坂を上り切った珊瑚寺の向かいには「木の都」の一節が刻まれた文学碑が設置されている。

珊瑚寺は、豊臣家の重臣であった桑山重晴が、秀吉の武運長久を願うために建てたと伝えられる寺で、もともとは和歌山の和田村にあって「三五寺」と号していた。だが、秀吉の紀州攻めで太田城が落城した後、初代の和歌山城主となった桑山重晴が現在の場所に移転させ桑山氏の菩提寺とした。その折、サンゴの数珠を寄進したことから「珊瑚寺」と呼ばれるようになったのである。その数珠は現在でも寺宝として伝わっているという。

●口縄坂:大阪市天王寺区下寺町2-1-23/距離:178m・高低差:13m・平均斜度7度

●学園坂:大阪市天王寺区下寺町2-1-30/距離:261m・高低差:11m・平均斜度2.4度

#大阪

#上町大地

#坂道

#天王寺七坂

#口縄坂

#蛇

#織田作之助

#豊臣秀吉

#紀州攻め

#学園坂

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?