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ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第4回〕
林芙美子

■尾道が心の故郷に

明治36年に生まれた芙美子(本名、フミ子)の出生地について、彼女自身は「下関市」と語っていたが、出生届けは叔父の家がある鹿児島で出されている。

芙美子の誕生を、実父の宮田麻太郎はなぜか認知しなかった。そのため「林フミ子」として、母方の叔父の戸籍に入ったのである。

幼少期の芙美子は、麻太郎の浮気が原因で、母と番頭の沢井喜三郎に連れられて家を出た。長崎・佐世保・下関・鹿児島を転々としたり、あるいは山陽地方の木賃宿を泊まり歩いたりする生活をしながらも、尾道市立尾道小学校(現、尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業している。

大正9年、芙美子に文才を見出していた訓導(教諭)の勧めで、尾道市立高等女学校(現、広島県立尾道東高等学校)へ進学する。ここでは友人に恵まれ、生涯の友も得た。幼いころから各地を転々として故郷をもたない芙美子にとって、尾道が心の故郷となったのである。

■放浪記が大ヒット

女学校を卒業した直後、芙美子は婚約していた恋人を追って上京する。東京では銭湯の下足番、女工、出版社の事務員などをやりながら自活していたが、翌年に恋人が帰郷してしまったことで婚約が解消された。

両親が上京してからは露天商を手伝っていたが、関東大震災が起こったため、3人で尾道へ引き揚げた。「芙美子」という名はこの頃からつけはじめた日記に用いたペンネームで、この日記が後に「放浪記」のベースになる。

震災の翌年、芙美子はひとりで再び上京。この時代の男性遍歴は激しく、同棲と別れを繰り返した末に、23歳のときに画学生の手塚緑敏と内縁の結婚をしている。

昭和3年、長谷川時雨が主宰する芸術誌に連載した「秋が来たんだ」(副題「放浪記」)が好評で、2年後に「放浪記」として刊行されるとベストセラーになった。その後に刊行された「続放浪記」もヒットして、一躍人気作家となる。

林芙美子文学記念碑

すでに満州事変が始まっていたが、本の印税が入ると中国、パリ、ロンドンの旅を楽しんだ。そんな芙美子の人気を妬んで「貧乏を売り物にする素人作家」と中傷されることがあった。作品の中で底辺の庶民を描くことが多かったから、そのようないわれ方をしたのだろう。

こうして芙美子の生い立ちや作家活動をみると、大阪とは縁が薄いようにみえる。だが、彼女の円熟期に発表された「めし」には、ジャンジャン横丁や新世界の風情が生き生きと描かれている。

現在のジャンジャン横丁

最盛期には新聞や雑誌に9本もの連載を抱えていた芙美子は、昭和26年6月27日、心臓麻痺で急逝した。享年47だった。生前の芙美子が色紙に好んで描いた一節≪花の命は短くて苦しきことのみ多かりき≫は、まさに彼女の人生をいい表した言葉ではないだろうか。

●林芙美子文学記念碑:アクセス/近鉄・阿倍野橋駅または地下鉄御堂筋線・天王寺駅下車徒歩10分、大阪市立美術館前。

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