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ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第6回〕
開高健

■けん? たけし?

「健」の読み方を「けん」か「たけし」で迷う人が多いようだ。本人はあまりこだわりがなかったのか、サインをする際に「かいこうけん」を名乗っていた時期があるから、どちらも間違いではないとされている。

■学制改革で大学に入りなおす

昭和5年12月30日に大阪市天王寺区で生まれた健は、7歳のとき住吉区(現、東住吉区)北田辺に移った。健が暮らした家は近年まで現存していたが、時代の流れには逆らえず、取り壊されて今は跡形もない。近鉄「北田辺」駅にある文学碑は、健がこの地で暮らしたことを記念したものである。

戦後は、旧制大阪高等学校文科甲類(英語)に入学。だが、学制改革が実施されたことで、翌年に大阪市立大学法文学部法学科(現、法学部)を再受験して大学に入りなおしている。

■結婚と就職は大学在学中

大学に入った健は、谷沢栄一が主宰する同人誌「えんぴつ」に参加する。そして昭和27年1月、同人仲間で詩人の牧羊子と結婚し、7月に長女の道子が生まれた。その翌年2月には、洋書の輸入業を営む北尾書店に入社している。

羊子夫人も、すでに壽屋(現、サントリー)の社員だったから、夫婦そろって大学在学中に結婚、就職、さらに子供まで授かるという、ある意味「中身の濃い」学生生活だったといえる。

 

昭和28年12月1日に大学を卒業すると、育児のために退社した羊子にかわって健が壽屋の宣伝部に中途採用される。ここから健の本領発揮ともいうべき、さまざまな傑作コピーが生み出されていった。

一方、小説家としても「裸の王様」で芥川賞を受賞していた。ところが健は、すこぶる遅筆だった。受賞後の第1作を「文學界」から受注したが、約束の期日に原稿が仕上がらない。切羽詰まった健は、すでに「群像」に納品してあった原稿を引き上げて「文學界」に納品した。この行動が「群像」を発行する講談社の怒りを買い、その後16年もの間、講談社から干された。

その後、壽屋を退職して文筆活動に専念。昭和39年には朝日新聞社の臨時特派員として、戦時下のベトナムへ赴く。この取材活動中に、反政府ゲリラから機銃掃射を受けるという体験をしている。200人中17人しか生還できなかったというから、まさに奇跡である。「輝ける闇」「夏の闇」「花終わる闇」(未完)は、この取材活動での壮絶な体験をもとに書かれた三部作だ。

開高健文学碑

■釣り師で美食家

健は釣り師としての顔ももっていた。国内はいうに及ばず、世界中で釣りを楽しみながら「オーパ!」や「フィッシュ・オン」など、釣りをテーマにした作品が生まれた。ちなみに釣った魚を殺さずに戻す「キャッチアンドリリース」を広めたのも健だといわれている。また一方で美食家でもあった健は、食と酒に関するエッセイも数多く残している。

平成元年、食道がんの手術を受けたあと「珠玉」を書き上げる。だが再入院し、食道腫瘍に肺炎を併発してこの世を去った。

●開高健文学碑:アクセス/近鉄南大阪線「北田辺」駅構内

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