【1】百団大戦における岡崎大隊の戦闘

今回紹介するのは、日本軍の大隊が「全滅」したとされる事例だ。

捕虜の証言


最近、捕虜になった2名の元日本兵が書いた戦争体験記『八路軍の日本兵たち』を読んだ。

この書籍には、「一九四〇年十月、八路軍の優勢な兵力で日本軍の一個大隊を包囲し、ほとんど殲滅した戦闘」(72ページ)として「関家〇」(グワンジヤナオ)の戦闘が記載されている。

※〇は不明な漢字。

この時期は、いわゆる百団大戦が発生した時期に相当する。

著者の前川はこの戦闘に参加し、日本軍への投降勧告を実施したという。

日中両軍の構成


同書によれば、日本軍は「第三十六師団百武部隊岡崎大隊」。
これに加え、数機の航空機が応援に駆け付けて中共軍を攻撃した。

これと対戦した中共軍は、「第一二九師団のなかでも精強を誇る第三五八旅団と第三五九旅団、直属隊、迫撃砲隊」、そして元国民党軍の「平漢縦隊」だったという。

これら中共軍を指揮したのは、なんと彭徳懐・劉伯承・鄧小平だったという。ビックリするほど豪華な面子だ。
著者の前川は、戦場で劉伯承・鄧小平の姿を目撃したという。

戦闘の推移


戦闘の経緯を同書に基づいて記載する。

根拠地に進攻した日本軍は、反転したタイミングで攻撃されたようだ。
中共軍は、いつもどおりの包囲殲滅を狙ったらしい。

中共軍による「鉄壁の包囲網」のなかで、数日間の銃撃戦が行われた。

この銃撃戦は「白兵戦一歩手前」の死闘だったと前川は述べるが、意外なことに手榴弾戦の記載がない。
中共軍といえば手榴弾だが、このときは射撃のみで戦闘していたのだろうか。

さらに興味深いのは、迫撃砲部隊が参戦していることだ。
迫撃砲による「集中攻撃」が行われたという記述がある。

そして、捕虜による投降勧告の後、夜間の突撃が行われたという。
同書の記述はあいまいだが、この夜間突撃で日本軍は全滅したようである。

なお、著者の前川は、「岡崎大隊長」の戦死を報じる日本の新聞を戦闘の約一か月後に入手したという。

まとめ

一個大隊が全滅したかはともかく、大きな損害を受けたのは確実だろう。
また、大隊長の戦死は確度が高そうである。

このように、気になった戦闘があったら、真っ先に調べるべきなのが戦史叢書だろう。

と、いうことで、次回は「戦史叢書 北支の治安戦」を調べてみる。







香川、前田『八路軍の日本兵たち』(サイマル出版会、1984年)

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