望楼丸

国共内戦から日中戦争における中共軍に関心があります。 ここには、学術論文や専門書水準の…

望楼丸

国共内戦から日中戦争における中共軍に関心があります。 ここには、学術論文や専門書水準の記事はありません。 見つけたこと、気付いたことをメモランダムのように書いていきます。

最近の記事

【中国戦線のBC兵器】地上部隊支援に使用された投下弾

「戦争責任研究」最終号の松野論文には興味深い史料(C04123681100)が紹介されています。 ここでは、この史料について述べます。 史料について「関東軍防疫給水部」の実用試験依頼で、支那派遣軍が「試製三〇瓩投下爆弾(特殊)」(※)を約200発試用。 この結果、「地上作戦直接協力」において「人馬殺傷力極メテ著大」だったため、追加で計800発の支給を要請。 「受領時期」は「至急」とあり、現地軍は早急に本投下弾を欲していたことがわかる。 ※なお、本史料では投下弾の名称を「九

    • 【毛沢東戦略】中共軍の侵攻作戦6ー蒋介石の侵攻戦略

      ここでは、中共の敵である蒋介石の戦略について検討する。 彼の軍事戦略の1つに、「地方政権が軍事侵攻を行い、中国全土を制覇する」という考えがあるように思われる。 そして、中共も同様の考えを持っていたように思われる。 おそらく、当時の中国を見るうえで、「地方政権」「軍事侵攻」の2つは重要なキーワードだと思われる。 また、これと対照的なものとして、ロシアを挙げている。 蒋介石の侵攻戦略まず、中共の敵である蒋介石の戦略について検討する。 彼の軍事戦略の1つに、「地方政権が軍事侵攻

      • 【毛沢東戦略】中共軍の侵攻作戦5ー書かれなかった侵攻戦略

        毛沢東「中国革命戦争の戦略問題」は、1936年12月頃に執筆された。 本論文では、国民党軍の包囲攻撃に対する中共軍の防御戦略について重点が置かれている。 しかし、一見したところ、この論文には「侵攻」に関する記述が見当たらない(※)。 国民党軍との戦争に勝利するためには、敵の攻撃からの防御だけでは不十分であり、敵支配地域に軍事侵攻し、敵中枢地域を占領する必要があるだろう。 こういった「侵攻」戦略について、記述されていないようなのだ。 これは、執筆時期と関連があるように思わ

        • 【毛沢東戦略】中共軍の侵攻作戦4ー第二次国共内戦における反攻

          毛沢東「解放戦争第二年目の戦略方針」(1947年9月1日)では、中共軍に反攻に転ずることを指示している。 「主力をもって外線に進出し、戦争を国民党地域」にもちこむ(187項)のだという。 「解放戦争第二年目の戦略方針」は侵攻作戦について毛沢東が言及した珍しい論文だと思われるため、注目すべきである。 なかでも注目したいのは、「国民党地域に新たな根拠地をつくる」(187項)ように指示している点だ。 また、「勝利をおさめる鍵」として、「大衆獲得の政策をだんこ実行して、広範な大衆

        【中国戦線のBC兵器】地上部隊支援に使用された投下弾

        • 【毛沢東戦略】中共軍の侵攻作戦6ー蒋介石の侵攻戦略

        • 【毛沢東戦略】中共軍の侵攻作戦5ー書かれなかった侵攻戦略

        • 【毛沢東戦略】中共軍の侵攻作戦4ー第二次国共内戦における反攻

          【毛沢東戦略】数的優位と兵力集中5ー人海戦術の原因について

          過去に書いた関連記事を紹介する。 これらは、「人海戦術」の原因の1つに兵力集中を挙げたものである。

          【毛沢東戦略】数的優位と兵力集中5ー人海戦術の原因について

          【毛沢東戦略】数的優位と兵力集中4ー第二次国共内戦の初戦

          毛沢東は、第二次国共内戦が本格開始した三か月を振り返って、以下のように述べている。 内戦本格化の初戦において、兵力集中と各個撃破が勝因であったようである。 また、ここでも極端な兵力優勢(少なくとも三倍)を主張している点に注目したい。

          【毛沢東戦略】数的優位と兵力集中4ー第二次国共内戦の初戦

          【毛沢東戦略】中共軍の損害2-「井岡山の闘争」

          毛沢東は、「井岡山の闘争」において次のように述べている。 銃の損失よりも、兵の損失が圧倒的に多いのだという。 中共軍は慢性的に極端な兵器不足であったことで知られている。 それでも、兵員損耗の方が深刻な問題だというのだ。 また、銃の損失が少ないのは、おそらく徒手兵の活躍によるものだろう。

          【毛沢東戦略】中共軍の損害2-「井岡山の闘争」

          捕虜活用の重視ー人的損害が大きかった?(第二次国共内戦)

          以前、第一次国共内戦において、毛沢東が捕虜活用に限界を感じていたことを述べた。 しかし、第二次国共内戦において、これと反するような言及があった。 志願兵は一部のみとし、捕虜を主体として補充を行うようである。 戦闘における人的損害が大きく、支配地域からの志願兵だけでは補充できなかったのではないだろうか。 そのため、大量に獲得できる捕虜の活用を推奨したのではないだろうか。

          捕虜活用の重視ー人的損害が大きかった?(第二次国共内戦)

          【毛沢東戦略】砲兵と工兵(爆薬)に自信ー第二次国共内戦の後半

          毛沢東は、第二次国共内戦の後半において、砲兵と工兵(爆薬)に大きな自信を持っていたようである。 結論毛沢東は1948年の年末ごろ、砲兵と工兵(爆薬)について2回も言及している。 毛沢東が具体的な兵器名に言及するのは珍しいため、この時期の毛沢東はこれらの兵器にかなりの自信を持っていたと思われる。 砲兵・工兵は、航空機・戦車を圧倒する? 毛沢東は、優勢な砲兵・工兵は敵の航空機・戦車を圧倒すると主張した。 以下に示すように、これらの記述は1948年の年末に書かれたものである。

          【毛沢東戦略】砲兵と工兵(爆薬)に自信ー第二次国共内戦の後半

          【近接戦闘】第二次国共内戦における毛沢東の言及

          第二次国共内戦時、毛沢東は以下のように述べている。 管見の限り、毛沢東が三大戦闘技術(銃剣、射撃、手榴弾)に言及した唯一の事例である。 この記述は、毛沢東語録にも掲載されており、以下の記事で紹介したことがある。

          【近接戦闘】第二次国共内戦における毛沢東の言及

          【毛沢東戦略】中共軍の損害1-第二次国共内戦初頭の戦闘

          本記事では、第二次国共内戦初頭の戦闘における中共軍の損害を検討する。 毛沢東の記述毛沢東は、第二次国共内戦が本格開始した三か月を振り返って、以下のように述べている。 検討ここで述べたいのは、以下の2点である。 (1)ほとんど損害を受けずに敵に勝利したのではなく、一定の損害を受けながらの勝利であったこと。 (2)戦闘における国民党軍死傷者は、中共軍の死傷者と同数程度ではないか。 「殲滅」には、敵を捕虜にすることも含まれている。 また、国民党軍は士気が低く、多数の捕虜を

          【毛沢東戦略】中共軍の損害1-第二次国共内戦初頭の戦闘

          中共軍の砲兵18ー砲兵の改善時期(第二次国共内戦)

          以下の記事で紹介したように、第二次国共内戦において中共軍砲兵隊は劇的に改善され、国民党軍を上回るものとなった。 そして、攻城戦においても、砲兵が大きな貢献を果たすことが可能となった。 砲兵が優勢になった時期としては、遅くとも1948年末ごろだと推定される。この理由は以下の通り。 ・以下の記事で引用した毛沢東「革命を最後まで遂行せよ」は、1948年12月30日のものである。 ・以下の記事で引用した朝鮮人部隊の書籍では、1948年末から開始された天津戦役から戦法の転換が行われた

          中共軍の砲兵18ー砲兵の改善時期(第二次国共内戦)

          民兵装備の変遷2ー「ほこ」「先込め銃」

          ここでは、民兵組織である「労農暴動隊」(井岡山時代)・「抗日自衛軍」(日中戦争期)が、「ほこ」「先込め銃」で武装していた可能性を指摘する。 井岡山時代ー「労農暴動隊」井岡山時代、中共には「労農暴動隊」と呼ばれる組織があった。 この時代における「民兵」に相当する組織だと思われる。 彼らは、「ほこ」「先込め銃」で武装していた。 任務は反逆者の弾圧と軍への協力である。 原始的な装備しか保有しておらず、戦闘は主目的ではないと思われる。 日中戦争期の「抗日自衛軍」も同様の装備か

          民兵装備の変遷2ー「ほこ」「先込め銃」

          中共の軍事組織2ー井岡山の時期

          ここでは、井岡山の時期における中共側軍事組織について述べる。 注目点:目的によって武装が変化?ここで注目したいのは、各軍事組織の目的によって武装に変化があった可能性である。 つまり、反逆者の弾圧・軍協力が目的であれば、装備は原始的なもので十分となる。 しかし、政府側民兵との戦闘には、原始的な武装では不十分で、小銃が配備されたのだろう。 また、政府軍との戦闘を企図したと思われる「赤軍」には、重火器が装備されていた点も注目すべきである。 井岡山時代の軍事組織毛沢東「井岡山の闘

          中共の軍事組織2ー井岡山の時期

          地方の軍事勢力3ー北伐後の地方軍事勢力

          ここでは、北伐後の地方軍事勢力について述べる。 国民党への合流北伐に対して、奉天派・直隷派などは安国軍を結成して抗戦した。 しかし、一部の軍閥は国民党側に合流したようである。 おそらく、北伐後も「軍閥」的な勢力が残置した背景には、このような側面もあるのだろう。 北伐後の地方軍事勢力「地方軍」として、以下のようなものが紹介されていた(※1)。 これらの勢力は、(張学良を除いて)国民党に合流した勢力(※3)と一致している。 北伐後の地方反乱これら「地方軍」は、北伐以後も中央

          地方の軍事勢力3ー北伐後の地方軍事勢力

          地方の軍事勢力2ー北洋軍閥

          袁世凱の死後、袁の配下の北洋陸軍出身者が覇権を争った。 彼らは「北洋軍閥」と呼称される。 北洋軍閥の構成北洋軍閥の主な構成は、以下の通り(※1)。 奉天派が旧満州を支配していたのはともかく、安徽派と直隷派の支配地域に華北~華南の沿岸部が含まれている点に注目したい。 奥地を含めた華北一円だけが「北洋軍閥」だと思っていたのだが、違うようだ。 また、支援国家にも注目したい。 これらの国から兵器の供与が行われた可能性があるからだ。 この時期に供与された兵器は、当該地方の地方小規

          地方の軍事勢力2ー北洋軍閥