20181206メンタルチェック温泉_ライターズ倶楽部課題

メンタルチェック温泉


日本人なら、大多数の人が大好きだろう、温泉。
しっぽり浸かって、美味しいものを食べて、まったり過ごす、至福の時間。あくせく動き回る日常から隠れて、心と体をリフレッシュ……。

私はずっと、そんな温泉が苦手だった。

「毎日忙しいから疲れてるんだよ。温泉とかでゆっくりすればリラックスできるよ」

結婚する前、疲れた顔の私を見て、そんな風に声をかけて頂くことが何度かあった。しかし、私にはその温泉が苦痛だったのだ。当時は一人暮らしで狭いユニットバスだったので、広いお風呂は大好きだ。なんなら近所の銭湯にも週一で通っていた。しかし、銭湯も温泉も、大好きなはずなのに、どうにも苦手だったのだ。

身体を洗っている時はまだいい。
湯船にゆっくりと浸かる時が、どうにもダメだったのだ。

本来なら一番リラックスできる至福の時であるに違いない。私も湯船につかる時はリラックスタイム、というのは頭では理解していた。しかし、ぼんやりとできるのはせいぜい数十秒。それを過ぎると、頭の中をいろいろな心配事があとからあとから浮かび上がってくる。悶々とそれらについて思考を巡らせているうちに、息苦しくなり、動悸が激しくなり、いたたまれなくなって湯船を飛び出してしまうのだ。

「のぼせたんじゃないの?」

私も最初の頃はそう思っていた。しかし、飛び出した後に脱衣所で身体を拭いていると、冷え性の手足はもうひんやりと冷たくなっている。温まり切らないうちに湯船を上がってしまったという事なのだ。時間があればもう一度湯船に浸かるのだが、やはりものの数分で飛び出してしまい、冷たい手足を拭き直すことになるのだった。

せっかく広いお風呂なのに、勿体ないな。
なんでゆっくりお風呂に入れないんだろう。

銭湯なり温泉なり、身銭を払って入館しているのだ。今日こそはゆっくりしたいと、小さな希望を持って湯船に足を入れているのだ。我慢ならなくなり湯船から上がるたび、やりきれない虚しさのため息ばかりついていた。

「あーあ、今日もすぐ上がっちゃったなあ」

銭湯の帰り道は、自宅までおよそ徒歩十分だろうか。広いお風呂が恋しい冬の夜、温まり切っていない身体は、家に着くころにはすっかり冷めてしまう。家に帰って、寝間着に着替えて就寝、となればよいのだが、私にはまだやることがあった。

「さて、レポートやるか……」

当時の私は、育児中の今よりも更に忙しい生活をしていた。平日昼間は上場企業で正社員として勤務、夜は社会人大学院に通う。土曜日は一日大学院の授業、日曜日は結婚前の今の夫の仕事の助っ人で、ワンデーセミナーのサブ講師。合間を縫って夫の会社の経理のサポート、更に、夫と一緒にバンド活動なんてしていたのだから、24時間、睡眠時間も通勤時間も削って削って、ヒイヒイいいながらいろいろなタスクをとにかくこなしていく日々だった。

全部できてたのかって? とんでもない! レポートを書きかけのまま寝落ちして、会社に何度も遅刻した。その日締め切りレポートが昼休みでは終わらず、大学院に向かう電車の中にてスマホで続きを書き、コンビニプリントで事なきを得たこともあった。サブ講師をしながら何度も船をこいだし、経理の書類は間違いだらけ。バンドは練習不足でメンバーに迷惑をかけっぱなし……。あれこれやりたいと手を出し、頼まれてはOKと引き受けていたのに、何もかも中途半端で、方々に迷惑をかけっぱなしだった。

そんな時に、ちょっと羽を伸ばしたい、少し休みたい、と思い立って、銭湯に行くのが好きだったのだ。夫も温泉が好きなので、ラクーアや万葉の湯によく連れて行ってくれた。一応のところウキウキと入館し、つかの間の休息だ、ゆっくり休もう、と思って湯船に入るのだが、目が回ってすぐに飛び出してきてしまう。好きなのにそれを満喫できない自分が本当に虚しく嫌いだった。

「あーあ、もっとゆっくりできたはずなのにな……」
「でも、温泉に来てなかったら、あのレポートが仕上がってたな……」
「じっくりあの曲練習したいなあ」
「あ、いけない、来週の会議の資料作ってないや」

落ち込んでいたはずなのだが、脱衣所で着替えていると、心配事が次から次へと思い浮かんでくる。着替え終わるころには、ちっぽけな温泉気分はすっかり消えてなくなり、早く何かしなくてはという焦燥感に駆られていた。

それから、バンドは本番を終え、大学院を修了し、夫と結婚し、夫の会社に転職した。当面のタスクは夫の会社の仕事と家事だけになったので、物理的な忙しさは目に見えて減ったが、それでも温泉に入ってはすぐに飛び出してしまう症状は続いていた。転職とほぼ同時に妊娠が発覚したので、検診や運動、出産準備などがそのタスクに加わっていた。

「この子が生まれたら、しばらくは育児一本になるんだなあ」

今まで忙しく過ごしてきた私には、「それしかない」状況がどんなものなのか想像がつかなかった。相変わらず、ベビー小物を手作りしたり、必要なものを買いそろえたりと、何かしらやることを作ってはパンパンになり、あれはできてない、これができてない、と頭の隅に焦燥感を感じる日々が続いていた。何か準備が出来てないことがあると、赤ちゃんの将来に悪いことが起きるような気がして不安だった。

「ゆーたんが生まれる前に旅行に行こう」

仕事を引き継いで産休に入った五月頃、夫がそんなことを言い出した。夫はお腹の中の子が男の子と分かるや否や、もう名前を決めてしまい、ゆーたんというニックネームまでつけていた。曰く、赤ちゃんが生まれるとなかなかのんびりと旅行が出来なくなる。今まで頑張ってくれたご褒美の意味も込めて、ゆっくり豪華な温泉に連れて行ってくれるという。確かにそうかもしれないな、と私は二つ返事で了承した。

荷物をトランクに詰めながら、また不安が頭をよぎる。
せっかくの旅行、せっかくの温泉なのに、またゆったり浸かれなかったらどうしよう。

そんなのは嫌だった。
せっかく、夫が用意してくれた素晴らしい時間なのだ。お風呂にゆっくり入れなくても、他のところは満喫できるようにしてみよう。やり残した仕事や、出産準備のことは一旦忘れて、旅を楽しむことに集中してみよう。

行き先は千葉県、鴨川シーワールドの近くの隠れ家温泉。コテージタイプで、室内に温水プールと家族風呂が付いているそうだ。私たち夫婦と、たくさんの荷物と、頭の隅の不安を車に乗せて、旅が始まった。ドライブ中はご機嫌ミュージックをかけて、おしゃべりが弾んだ。意識的に赤ちゃんのことだけを話して、仕事その他の心配事の話をしないようにした。

「ホテルのプール、浮輪使えるかなあ」
「使えるんじゃない?」
「妊婦が泳いでも平気かなあ」
「温水らしいし、平気じゃない?」
「あっ今動いたよ!」
「ゆーたんも旅行楽しいでしゅかー!」

何度も夫に話しかけ、夫もニコニコとそれに答える。

「ラーメンにチャーシュー乗せる!」
「アイスおいしそう、アイスもたべたい!」
「カロリーいいの?」
「今日はいい!」

体重管理のため食事制限中だったが、この旅は節度を保てばある程度は食べていいことにした。海ほたるで食べたラーメンとソフトクリームの美味しかったこと! 海を眺めながら、かみしめるようにして食べた。海を越えて千葉県の美しい山間の道を走ること数時間。今までで一番贅沢な宿にした、と夫が言うだけあって、本当に素晴らしかった。ベッドだけで四畳半あるんじゃないかと思うようなベッドルーム、ごろりとくつろげる八畳ほどの和室、ソファーが気持ちいいリビングダイニング。バーカウンターの冷蔵庫には飲み物がずらり。心地よいエスニック風のBGMに水音が混じり、窓の先には大きなプールと、赤紫のプルメリアの花が浮かぶジャグジー風呂。プールサイドから歩いて行ける洗面所と、家族風呂。

「わあー! すっごいねえ!」
「すっごいなあ!」

私は大きなお腹なのを忘れそうになるくらい、あちこちはしゃいで見て回った。夫は早速水着に着替えてプールに飛び込んでいる。私も水着に着替え、まずはジャグジー風呂に入ってみた。五月といえども薄曇りは少し肌寒かったが、ジャグジーの温度は暖かでちょうどよい。プルメリアのお花が浮いていてお姫様みたいだ。

のんびりするのが目的の旅なので、到着してから特に外出の予定はない。夕食に、この近所にお住いの友人と食事に出るだけだ。それ以外はこの豪華な部屋で二人してゆっくり過ごす。ジャグジーの次はプール、プールの次はプールサイドのビーチチェア。家族風呂で温まって服を着たら、リビングの気持ちよさそうなソファ。滞在中にやろうと持ってきたものは、マタニティヨガのDVDと、育児に関する本だけ。夫はPCで少し仕事もするようだが、私はこの宿と赤ちゃんのことだけを楽しむことに集中して過ごすようにした。

出産準備、やり残した仕事が時々頭をよぎるが、ダメダメ、と首を振る。
ここで、何をしたら楽しいかな?
プールサイドでヨガをしてみようかな……。

そんな風に過ごしていたら、滞在期間はあっという間に過ぎてしまった。出発の日の朝、夫はまだ寝ていたので、最後にもうひと風呂浴びようと、家族風呂に入った。観葉植物と、ここにもプルメリアが浮かんだ水瓶があり、入浴中の目を楽しませてくれる。楽しい旅行だったなあ。赤ちゃん元気に生まれてきてくれるといいなあ。湯気と一緒にゆったりと息を吐き出した時、私はふと気が付いた。

あれ、私、ゆっくりお風呂に入ってる。
飛び出したいって思ってない!

「…………!」

その事実に気が付いてうっかり立ち上がったが、思いとどまってもう一度湯船に浸かった。湯の温かさが指の先、足の先、体の芯までじんわりと染みわたってくる。息を吸うと、すがすがしい空気が胸いっぱいに広がる。動悸は少し早いかもしれないが、苦しさを感じるようなものではない。身体はぽかぽかと温まり、心はゆったりと落ち着いていた。

私、温泉を楽しんでる!

嬉しくて嬉しくて、ニコニコしながらお湯をバシャバシャしてみた。胎動を感じたのでお腹をぽんぽこ叩いてもみた。楽しみだった旅行を、きちんと満喫できたことが本当に嬉しかったのだ。帰りの車では、如何に素晴らしい宿だったか、私がどれだけこの宿を満喫したのか、ずっと喋り続け、夫はニコニコしながらそれを聞いていた。

あの素晴らしい宿のことを思い出すと、銭湯で湯船から飛び出していた頃のことも必然的に思い出す。あの頃は本当にタスク過多で、メンタルにも影響がでていたのだとしか言いようがない。その頃から自分自身でもそう思っていたし、いろいろな人にやりすぎだよ、休みなよ、と言われていた。しかし、タスクが多い状態が当たり前だったので、そうではない状態がどんなものなのか、自分がどれだけ異常なのか、いまいちピンと来ていなかったのだ。今思えば片頭痛に胃腸炎、肩こり、頑固な便秘など、いろいろな身体症状も出ていたが、単に疲れているからだ、みんなもそうだろう、としか考えていなかった。湯船に長く浸かれないというのは、その中でも唯一、当時の私でも異常だと感じ取れた異変だったのだ。

湯船に長く浸かれるかどうかは、私の大切なメンタルチェックのバロメーターとなった。今でも仕事が立て込むと、湯船で少し息苦しさを感じる時がある。そんな時は何もかも最低限だけ済ませてさっさと寝てしまうことにしている。その日中に絶対やらないといけないことなどそうそうないからだ。そうして早めにメンタルもいたわることで、次の日も気持ちよくお風呂に入ることが出来る。

先日、一歳になった息子も連れて、家族で温泉に行ってきた。家族風呂で温泉デビューとなった息子だが、家とは違う環境が怖かったのか、終始ギャン泣きして終わってしまった。家族でのんびり温泉に浸かれるようになるまでは、まだしばらくかかりそうだ。その日が来るのを楽しみに、のんびり家のお風呂に入っていよう。

≪終わり≫

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