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原体験

あらためて「恥」とは?」記事の中で、ちょっとひっかかることがあった。

「そんなことを言える(やれる)器じゃない」とか「おこがましくないか?」とつい考えてしまう自分。

確かに「never good enogh」という思考からくるものなんだけど、もっと奥底に何かがあるような気がした。


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わたしが幼稚園に入る直前、父の転勤で関西から引っ越してきた。
母にとっては0歳児の妹を連れての新天地。高度成長期時代のサラリーマンには休みなんてほとんどない。入園式だから、入学式だからと父が休みをとれるような時代ではなかった。頼れる親戚もいない場所で母はワンオペをしていた。
そんなだから幼稚園の入園式、近所のおばさんに私を託し、母は来てくれなかった。
初めて行く幼稚園なのに、知っている子もいないのに、不安で押しつぶされそうなのに、わたしはよそのおばさんと入園式に出た。
入園式の写真は泣きべそをかいて、列の端っこでなぜか大きく傾いて椅子に座る自分が写っている。

幼稚園には行きたくなかった。お迎えのバスに乗せられて幼稚園に向かう。
当時、幼稚園の1クラスはけっこうな児童数だったはずだ。先生の目も手もなかなか行き届かない。
おとなしくて身体が小さいわたしは、自分は先生から見えていない存在のように感じて、いつも不安を抱えていた。
わたしはトイレに行くとき、なぜか先生の許可が必要だと思い込んでいた。
「センセー、おトイレに行きたいです。センセー、センセー」
わたしが声を上げても、他の子を対応している先生はなかなか気づかない。
そのうち限界がきて、その場でおもらしをしてしまう。
結構頻繁にわたしはそんなことをやらかした。

これって、よく考えてみたらウチのワンコと一緒だなと思う。
愛犬は自分にアテンションがもらえないとき、わざとトイレでない場所にオシッコをする。後でしこたま怒られるのに。

結局そんなこんなで幼稚園にはほとんど行かず、家で静かに本を読んだりお絵かきをして過ごしていたと思う。
わたしにとって安心できる場所は、きっと母のそばだったんだろう。
だからと言って、母がわたしにかまってくれる時間はなかったはずだ。
やっぱりわたしは十分な愛情をかけてほしかったのではないか。

妹が幼稚園に上がるとき、妹はわたしと同じ幼稚園には行かなかった。
親がきちんと幼稚園まで送り迎えをする必要のある幼稚園だった。
あんなに不安を抱えながら幼稚園バスに一人放り込まれていたわたしと、毎日母が送り迎えする妹、子ども心に何とも言えない不公平感があったことは否めない。

大人からみれば些細なことかもしれないけれど、そういう原体験を重ねて、わたしは「自分は愛されるに値しない」のレッテルを自ら貼ってしまった。
そういう原体験があった上に、さらに植え付けられた両親のモラル。それがわたしの「恥」に繋がっているような気がする。
「きちんとした子」「外で騒がないお行儀のいい子」そういう顔でいれば、
母からもよその人からも褒められる。
たぶん、だから、自分の中に他人軸しかなかったんだ。ずっと。

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