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ビリギャルは元々頭が良かったのか?

週次でのnoteを復活させて、日曜日にUPすることができそうです。
ここからしばらくは週次、または隔週ぐらいでは書いていきたいです。

「ビリギャルは、元々頭が良かったのだよ。」

最近読んだnoteでめちゃくちゃ良いな、と思った投稿だったので紹介しつつ、感じたことを書いてみたいと思います。ちょうど前回書いた記事にも関連しそうなので。

実体験から書かれており、真に迫っていて響くものがあります。読まれていない方は是非!
小林さやかさんの原文読んで頂きたいですが、勝手に要約すると以下のような内容です。

  • 頭が悪いと言われ続けていたが、慶応大学に合格した途端「地頭が良かったから」と言われるようになった

  • 多くの人は経過ではなく結果で事象を判断し、さらにその結果も先天的な才能によって成されたと考えてしまっている

  • 元来、子どもたちは多様で、それぞれに合った学び方によって可能性が拓けるはずだが、周りの大人が環境や方法に固執し、子どもの可能性に蓋をしているだけでは

  • 大人こそがそれを自覚し、子どもが挑戦し成功や失敗の機会を設け、小さな成長を認めいくことで、子どもの可能性は拓ける

いやはや全くもってそうだな、という感想です。
自分も一人の親としては、なんだかんだ先回りして子どもの挑戦の機会を邪魔をしていることも多いな、と。
うーむ、理解しているつもりでも、やりきることはなかなか難しいですね。

結局は天性の才能次第なのか?

小林さやかさんが慶応大学に合格した最大(と言って2つあげる)要因について、上記のnoteやビリギャルの本を読んだうえでの感想は

  • 学ぶ楽しさと成長を実感する機会を設けてくれた、ビリギャルの著者であ坪田先生との出会い

  • 子ども可能性を信じ、機会を得るために力を注いでいた母親の存在

なのだと理解できます。「元々頭が良かった」ではなく。

一方で、多分周りの皆さんが彼女に言っていることは「そういった環境があったとしても、それを活かせたのは結局は元々の頭の出来次第なんだろ」ということなんだと思います。

この指摘自体は、相関に関する理解としては正しく、ただし因果が逆であることが本質的な誤りなのだと感じました。
真は「頭の出来に合わせた環境が設けられたから」なのかな、と。

性格特性に合わせた学び

noteのなかでは以下のように書かれていました。

この話は、坪田先生と母のおかげで、私の能力が最大化するピースが本当に運良くピタッと揃って、今まで母以外誰も気づかなかった私の能力が、突然爆発したってだけだなんだよ。ほんのちょっとの違いで、全く違う世界線がここからはっきり私には見える。

「ビリギャルは、元々頭が良かったんだよ。」より

当然運も良かったと思いますが、ご本人が1億倍分かっていることでしょうけど「能力が最大化するピース」は運だけではなく、坪田先生がそれに合わせにいったからなのだろうな、と。
ビリギャルの本の序盤、出会いのシーンで、以下のように書かれています。

ただ、僕は彼女がぱっと挨拶を返したのを見て、この子は素直だ、と感じていました。
心理学を学んで生徒の指導に活かしてきた僕は、いつも初対面の時のしぐさや反応で、生徒の性格を見極め、指導方法を切り替えていきます。

坪田信貴著『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に合格した話』より

著者の坪田信貴さんは「人間は9タイプに分かれる」として、以下のようなアセスメントも公開されています。

上記は質問に答える形式でその人の性格の特性を、9タイプごとに特徴量で診断してくれるものでした。
坪田先生は子どもとのやり取りの中で、その子の特性を見極め、方法の出し入れをしているのだろうと読み取ることができます。

こういった性格診断については、BIG5MBTIなどが有名ですが(自分の組織でもメンバでこちらを受けて共有しあったりしていました。ちなみに自分は運動家でした。)、近いような●●診断って結構ありますよね。

事前にその子の性格特性を見極め、それに合った学習方略を授けていく。まさに個別最適な学びだ、と。

才能主義の表裏

小林さやかさんのnoteでは「才能主義の脅威」として、以下のようなことが書かれています。

学び方や感じ方はそれぞれ違うし、得意不得意ももちろんある。知識詰め込み型の勉強が得意な子もいれば、対話を通して言語化するのが得意で、そこから学びを吸収する子もいる。褒められたらもっと頑張れる子もいれば、叱られてこんちくしょうで頑張るほうが結果が出やすい子だっている。

みんなちがう。それなのに、社会が、親が、先生が、この十人十色の学び方、頑張れる環境がある中で、「こういう環境でこういう方式で結果を出せる子が賢い!」となぜだか勝手に決めつけて、そこにフィットしないと「頭が悪い」というラベルを貼っつける。

「ビリギャルは、元々頭が良かったんだよ。」より

「周りの大人が環境や方法に固執し、本来多様である子どもの可能性に蓋をしている」ということなのだと思います(うぅ、自覚で胸が痛む…。)。
これって、数少ない尺度や方式で判断していることが問題なのであって、生得的な特性を無視するのとは真逆で、言葉の定義次第ですが「持って生まれた才能を活かしきろう」と言っているように見えます。
言葉遊びの感がありますが、良い意味?での「才能主義」とも言えそうです。

遺伝の影響を避けがちな教育現場

一方で、教育現場では、遺伝と偶発によって生じた生得的な特性に触れること(言及すること)を避ける傾向があるようにも感じます。
元来、教育が人の後天的な成長を期待して実施する行為である(裏返すと遺伝のような先天的な違いを克服するものと捉えられる)ことや、生得的な特性による選別や差別を忌避することから生じているものだと理解しています。
以前は多くの学校で行っていた知能検査が下火になりつつあることも、その1つのようにも思えます。
緩利誠「学校教育における知能検査の利用

しかし、先天的な遺伝と後天的な環境(教育)は対立概念、と捉われがちですが、先天的な特性に基づいて後天的な環境≒教育を設けていくことが、子どもの可能性を拓く確率をあげていくはずです。

東京大学の附属中等教育学校では、双子の入学枠を設けて遺伝と環境の影響を研究する「双生児研究」をやっています。

関係する研究論文を読んだこともありますが、どの分野で遺伝影響が強く、どこで環境影響が強いのか、などが研究されていたりしています。個人的にはとても興味深い内容でした。
こういう先行研究を活かしていくことが前提で、先天的な特性を把握して活かすことは、効果的な教育を行うことに繋がるのだと感じます。

選別や差別に繋がるリスク

一方で、当然ながら未来の可能性を摘むような選別や、言われなき差別に繋がる危険は、強く強く認識していく必要があるのだと思っています。
自意識過剰感ありますが、政策や仕組みに影響を与えるかもしれない立場としては、「地獄への道は善意で舗装されている」は腕にタトゥーにしておかねばと思っている自戒です。

前回も書きましたが、ELSIの観点やその前提である哲学に基づいて、常に自ら問いかけ、地獄への道を塞いでおく仕組みも組み込むことを強く意識していきたいと思っています。

目的・方法・背景の構造

上記の前回記事でも紹介した独立研究者の山口さんと熊本大学の苫野先生が「ScTN質問紙」においても、生得的な特性と教育の関係性を理論として構造化され公表されています。

上記サイトで、質問紙の政策過程における調査の結果等として以下のような図が公表されています。

「ScTN質問紙:作成過程における調査の結果等」より

「学習経験・教育環境」によって「資質・能力」が変化する、という教育のある意味で基本的な構造と、その前提として両者に影響する「気質・器質」があることが図示・構造化されています。
前述している性格特性など、主に先天性の高いものが「気質・器質」に含まれる理解です。

ビリギャルだった小林さやかさんも「元々頭が良かったから」ではなく、彼女が持ち合わせた生得的な特性(背景)に合わせた学習経験・教育環境が設けられた(方法)からこそ、資質・能力が向上し(目的)、結果として慶応大学に合格した(自己実現)のだろうな、と。

そしてその機会を設けたのが坪田先生であり、信じ支え続けた母親なのだろうな、と。
会ったこともなくnoteと本を読んだだけの癖に、勝手なことを思っていました(相変わらず勝手考察する自分のキモさに自らドン引きしています)。

世間が言う「地頭の良さ」の凡その正体

とまあ、小林さやかさんのnoteを読んでバーッと10分ぐらいで思ったことを言語化するだけで、2時間ぐらいかかっちゃいました。
とはいえ、脳内の思考経緯をかなり正確に言語化できるのが自分の特性でもあるので、書けること自体が自分の強みだと自覚しています。

生得的な特性と言われる認知特性のパターン分けとして、マルチプルインテリジェンス(MI)という8つに分類する学説があります。自分は「言語・語学知能」「内省的知能」「論理数学的知能」に高く出る傾向があるので、こういう言語化はそれらを活かしているのだろうな、と俯瞰で思っていたりしています。

実は自分も良く「地頭が良い」と言われることがあり(これを書くと自慢ぽくなるのが嫌ですが)、その点でも共感があって今回取り上げちゃいました。
一般的なビジネスの場では「言語・語学知能」「内省的知能」「論理数学的知能」が重要視される面が多いため「地頭が良い」という評価になるのだろうな、と。
でもそれもあくまで一般的なビジネスの場で有用なことが多いだけで、美しさを直観的に知覚する能力が低いと自覚していますし、そもそも1万年前ぐらい前の狩猟社会に生まれていたら役立たずになりそうですし、その程度のものだな、と個人的には思ったいたりしています。

結果に対する価値基準の乏しさ

もう1つだけ、ビリギャルの話で感じたことを。
ビリギャルの本が売れた理由の1つに、この本の趣旨とは真逆だと思いますが、今の社会が抱える「結果に対する価値基準の乏しさ」を感じています。

坪田信貴さんのとても読みやすく面白い書き口や、ノンフィクションでありながら魅力的なストーリーが売れた要因だと思っていつつ、「学年ビリが慶応に受かった」ということを殊更サクセスストーリーと受け取ったこと自体に、学歴に対する社会の思いが詰まっているように感じます。
良い大学に行くことが成功に繋がる、という多様ではない価値基準の乏しさ

偏差値や出身大学は生涯年収に因果があるだろうけど、そもそも生涯年収が高いことは良いことなのか。
練習して足が速くなったことも、努力してメイクが上手くなったことも、大好きなゲームでスコアが上がることも、方向が違うだけで成長なのだと思っています。

ビリギャルの話を抽象・単純化すると「困難な目標に挑んだ成功体験」なのだと理解しています。他の成功や失敗でも、それが必ずしも世間一般で評価されがちなことでなくても、本来その経験自体尊く、次の挑戦に繋がっていくもののはず。
多様な才能を信じることと同時に、結果についても多様な価値を見出す社会にしていけたら、と願っています。自分もそれに貢献せねばと。

おわりに(とPR)

と、日曜の朝に早起きしてキモいことを書いてみました。
教育データの利活用を考える身として、今日書いたことは避けて通れない部分だったりしていて、しかもそれを考えるキッカケになるとてもステキなnoteだったので思わず書いてしまいました。

また、前回・今回と取り上げた一般社団法人ScTNの山口さんとは、7/20 15:00-16:30の以下のイベントでご一緒することになっています。

紹介していたScTN質問紙にも触れつつ、前述した構造化された体系理論にも触れることになるのでは、と思っています(と書きつつ、まだ何も相談していないw ごめんなさい)。

前半では中教審の委員でもある鹿児島市の木田先生も登壇し、デジタル庁での実証事業の見通しなども話してくださる予定(と書きつつ、まだ何も相談していないw ごめんなさい)ですので、教育データの利活用を考える教育委員会の皆さんは必見の内容になるのでは、と思います。
是非、お申込みをしていただけたらと。

ということで、もう5,000字を超えそうなので今日はこの辺で。
ではまたー。

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