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ぼく、シド・バレットがどこに住んでるか知ってるよ

彼は三十代半ば、だった。
小さな会社に勤めていたが、その仕事もその会社も嫌でたまらなかった。
しかしその会社を辞める勇気はないのだった。
「食べていかなきゃいけないから」と彼は思った。
それでも、いつまでもここにいたくない、どうにかしなくては、といつも思っていた。

どうにかしなくては、と思うだけで、どうしたらいいかわからず、街の中をただ歩き回った。
しかし、誰かに声をかけることはできなかった。
バカにされるだろう、と思った。
彼は臆病だった。
彼はそれまでにもずいぶんバカにされてきたので、もうバカにされたくはなかったのだ。

会社の帰りに歩き回り、休みの日に歩き回った。

そんなある日のことだった。
日本人の彼は、日本から一度も出たことはなかったが、そうやって歩き続けた末に、ある日異国の街角にたどり着いた。

淀んだような空模様の日だった。
そこに少年が立っていた。
8歳か9歳、といったところか。
白人の少年。

その少年は彼の方を見ると
「ぼく、シド・バレットがどこに住んでるか知ってるよ」
と言った。

彼は外国語は全くしゃべれなかったが、不思議なことに少年の言うことはわかったし、少年と話をすることもできた。
「本当に?」と彼は聞いた。
少年はムッとした顔をした。
「嘘なんかついてないよ」
「ごめん、疑ったわけじゃないんだよ」と彼は言った。
「ただシド・バレットがどこに住んでいるのかは誰も知らないと思っていたからびっくりしたんだ」
少年は、少し得意そうに
「ぼくは知ってるんだ」
と言った。
「すごい、本当なんだね」と彼は言った。
すると少年は機嫌を直したようで、
「そこまで連れていってあげようか」と聞いてきた。
「もちろん」と彼は言った。

「こっち」
と言って少年は歩き出した。
彼はその後をついていった。
しばらくすると街はずれに出た。
小さな赤い屋根の家があった。
少年は木戸を開けて勝手に庭に入っていく。
彼も続いて入った。

庭の隅に一本の大きな木があり、庭の真ん中にはもう一本、ひょろっとした細い木が立っていた。
そのひょろっとした細い木を指さして、「彼がシド・バレットだよ」と少年が言った。
「この木が?」と彼は言った。
「ずっとこの木に」と少年が大きな木を指さして、「ずっとこの大きな木に話しかけていたから、自分も木になっちゃったんだよ」と言った。

これって「住んでる」と言えるのかな、と思ったが、少年がまた気を悪くするといけないので口には出さなかった。
彼は「少しここに居ていいかい?」と聞いた。
少年は「別にいいよ、この家にはもう誰もいないからね」と言って、そのままどこかへ行ってしまった。

彼は大きな木の根元にしゃがみこんで、ひざを抱えて、ひょろっとした細い木を眺めた。

あたりはとても静かだった。
このひょろっとした細い木が、ぼくに何か話しかけてくれないだろうか、と思った。
話しかけてくれるのを、ずっと待っていた。
しかし自分から木に話しかけることはしなかった。
木に話しかけるのは、どう考えても馬鹿らしいような気がした。

まともな人間は木に話しかけたりはしない。


時折、アコースティックギターの音が聞こえたような気がしたが、その音に気持ちを集中しようとすると音は聞こえなくなってしまう。

しばらくそのままで待っていたが ― 待ち焦がれていたが ー 結局何も起こらなかった。

彼はあきらめて立ち上がり、ズボンについた草を両手で払った。
赤い屋根の小さな家を出て、来た道を戻った。
最初に出会ったあたりに、少年がいた。
「話はできた?」と少年が聞いてきた。
「いや、話はしなかったよ」と彼は答えた。
「どうしてさ」と少年は言った。
彼がどう説明すればいいか考えていると、
「ま、別にいいけどさ」と少年は肩をすくめ、くるっと向こうを向いて歩いて行ってしまった。
彼はその後ろ姿に何か声をかけようと思ったが、どう声をかければいいかわからず、ただ少年の後姿を見つめていた。

元居た場所に戻ると、十年以上の月日が過ぎていた。
彼はまだ小さな会社に、三十代半ばの時に勤めていた小さな会社に勤めていて、その仕事もその会社も嫌でたまらなかった。
昔よりももっと嫌いになっていた。
そして疲れはてていた。

彼は、どうしてももう一度あの赤い屋根の小さな家に行きたいと思った。
以前よりも疲れやすくなった体と、以前よりもすり減った心で、街中を歩き回った。
しかしどんなに歩き回っても、あの異国の街角には行きつかなかった。
あの少年にも会えなかった。

あの時、あのひょろっとした細い木に、何か話しかければよかったのだろうか、と思った。
馬鹿らしいと思わずに、なにか話しかけるべきだったのか。

しかしその答えも結局わからなかった。

何もかも、もう遅すぎるのだった。

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