見出し画像

『片腕必殺剣』(1967年の映画)

注意:あらすじをすべて書いています。

武侠映画クラシックとして知られるこの作品は武術を描きながらも武術との別離を描いた作品だ。たまたま放送していたものを頭から最後まで見たので感想とあらすじを書く。

あらすじはこうだ。高名な「金刀流」の高弟が師匠を守り抜き死亡した。師匠は高弟の息子(ジミー・ウォング)を我が子のように育て、ジミー少年は師匠を父代わりにすくすくと成長した。

そして、月日は流れ青年となったジミー・ウォングは剣術家一門の筆頭となった。それが面白くないのは師匠の実子三兄妹である。妹は度を越した世間知らずのツンデレでありジミーにゾッコンLOVEだがツンすることが愛情表現だと思い込んでいるサイコパスであり「お前と親しくしているのは師匠への恩義のためだ。LOVEではない」と言い切られたことにツンデレしてジミー青年の右腕を付け根から切り落としてしまう。

片腕を切り落とされ川落ちして生死不明となったジミー青年は村娘に拾われる。片腕だが慎ましやかな生活。邪悪な武術集団が通りがかるも片腕なので相手にされずにやり過ごすことができた。

だが、邪悪な武術集団が金刀流を標的に闇討ちを仕掛けていることを知るとジミー青年は折れた刀と左腕だけの剣術を磨き上げ三兄弟の元へ走る。

ここで重要になる概念が「恩義/仁義」である。忠誠を尽くしたものの腕を斬られることになった師匠筋に対しての仁義が主人公をがんじがらめにしている。絶対に行きたくない。行かば死ぬ。村娘と仲良くしていたい。そのような健全な思考を塗りつぶしてしまう概念が仁義である。武侠小説やヤクザノワールの見どころは、このような相反する思考と安寧への逆行であり見る者の心情に訴えかけてくる。セット撮影の閉じた空間。大仰な顔面や演技もあいまって強い圧を感じさせる。
そして物語は後半へ移る。ここで重要な概念は「思慕」と「選択」である。ジミー青年は片腕ゆえにどちらか一つしか得ることができない。敵方は多刃多刀であるという対比が効いている。あらゆる妨害に対して刀ひとつで押し通すしかない。盤面この一手。

実はこの片腕剣術は村娘の父親が習得していた技術であった。武術におぼれ死亡した父親の二の舞を出したくない村娘だったがこのままでは死んでしまうジミー青年を見かねて奥義書を渡してしまう。

そうジミー青年は片腕なのだ。一つの腕に刀を握ればお前を抱きしめられない。村娘は泣き、ジミー青年は義理を果たせばきっと戻ってくると伝えて道場へ走ったのであった。

一方で邪悪武術集団は金刀流対策を仕上げてきていた。DIYドライバーめいた複雑な形状の刀で金刀を受け止めて短刀で刺し殺す二刀流。金刀のサイズまで計測してジャストフィットするニューギアを用意してきた。そして敵の大ボス邪悪武術家はこれに加えて、皮鞭と無数の投げ槍を装着したインディアナ・ランボーンズのような男でまさに無双である。

金刀流道場での決戦。次々と死ぬ高弟たち。ついに師匠が詰め腹を召される寸前にジミー青年が到着した。片腕必殺剣が閃き次々と邪悪武術家が倒れていく。そして大ボスが追い詰められる。折れた刀、片腕の剣術、金刀対策のセオリーが通用しない。

やがて追い詰められ投げ槍の最後の一投が右腕の付け根に突き刺さる。尋常の武術家であれば致命的な利き腕の根元だ。武術のセオリー通りの決着、となるはずだったがジミー青年は片腕だった。袖を貫いた槍を意に介さず折れた刀で邪悪武術家を切り捨て、義理を果たして道場を後にする。

約束通り剣を捨てたジミー青年は村娘と共に青空の下へ旅立っていく。片腕に抱えられるものは一つだけだから、そこに未練はなかった。

【劇終】

閉じたセット撮影から青空を望むロケ撮影に切り替わったエンドシーンは見事で満足感に心を満たしてくれる。何かのわだかまりを放り捨てる姿を見ることは心の健康に良い。オススメです。


いつもたくさんのチヤホヤをありがとうございます。頂いたサポートは取材に使用したり他の記事のサポートに使用させてもらっています。