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「自分語りの罠」に打ち勝つには

自分語り、というものは手軽にできるゆえに多くの罠があり、社会的に女である場合、余計にその罠にかかりやすくなるように思います。
今回はその罠と、罠にかからないように私が意識していたことについて徒然したいと思います。

筆者の経緯・立ち位置

過去10年間の流れを簡単にまとめると、
北海道の進学校で鬱屈した高校生活を送る

インターネットにハマり、「東京の文化」「ライターコミュニティ」に憧れを持つ。
東京に行きたいばかりに志望校ランクを上げる暴挙に出る。結果志望校には受からず、仮面浪人。…a)

仮面浪人したらなぜか一挙にリア充生活(サークル活動の傍ら彼氏ができる)が到来し、憧れていた人と断絶する

無事に志望校に受かり、上京

書きたいことができたのでインターネット活動を再開…b)

就職したらそれどころではなくなり中断

モラハラ食らったりブラック企業に揉まれつつも現職にたどり着く。ついでに結婚する

余裕ができてきたので趣味・インターネット活動を再開…c)

あれ、なんか週刊ゲンダイで似たような来歴の人の話があったな…まぁいいや。

という感じで、「書く時期」と「書かない時期」が割とはっきりした生活を送っていました。

今回は「a)・b)の時期に共通して陥った罠」と、その防ぎ方(仮論)について書きたいと思います。

a)・b)の時期の罠…承認欲求

正直これに尽きます。
いずれの時期も本業がそこまでぱっとせず、「インターネット上の人にリアクションをもらうこと」自体が報酬であり、目的になってしまっていました。
そして、ここがインターネット(というより当時のはてな村というのが正しいのか…)の怖いところでもあるのですが、「若くてそこそこ文章が書ける女(最近はそれだけだとあまりにも多いので可愛さも追加されていますね)」というのはそれ単体でアイコンとして機能してしまうのです。
しかも、この「そこそこ」が曲者で、「経験に裏打ちされた厚み」や「事実の重み」といったものは要求されておらず、「日本語として破綻していなければよい」程度のものだったりするのです。

その程度の承認であり、相手にとっては何一つ響いていないもので、利益を産まずに慰みものとして消費される宿命であっても、飢えた承認欲求には甘く響いてしまうのは事実でした。

ただ、私自身は承認欲求を満たされつつも、簡単に満たされること自体に強い危機感がありました。東京は広く、手強いはずなのに、こんなに簡単でいいのか…と。
(事実、進学先は日本有数の大学なので、クラスメートにも手強い奴がうようよいました。私は弱い人間だったので、そこに対して逃げ場無く立ち向かうことはできませんでした。ただ、今でも関わりがあるクラスメート達は相変わらず各自の持ち場で頑張っていたりして、その話を聞くと勇気付けられます。)

そして、私を認めてくれているはずの人々が、私から見て生活に満足しているようには到底見えず、全く好きになれそうにもなれず、方針転換を考えざるを得ませんでした。

c)への処方箋…書くことを目的にしない、地に足をつける

結局、結論としては

・書くことじゃない仕事をしながら
・書くことができた時だけ、書く

のが一番いい文章との付き合い方だと感じています。

実際、私が最近気になるブロガーさんはほとんどがこのタイプです。他に仕事や本分を持って、合間に徒然する方々の文章がやはり一番面白いです。

何が一番良いかというと「書かれていない」ことの抑制のバランスが良いと思うのです(承認欲求に捕らわれている人はこの制御ができなくなるので、書くべきでないことも全部書いてしまいます。私はそれが怖いと思います)

書くこと自体を目的にしてしまうと、自分の書いた文章に捕らわれて足を踏み外す日が出てきてしまうからです。

言葉はあくまでツールで、考えを伝えるためのものです。ツールに飲まれることほど悲しいことはないです。

「書くもの」を失っても書かなければいけなくなってしまった時、承認欲求の罠に捕らわれていないかと我が身を振り返ろう。その時はペンを置いて、旅立つべき時なのだ。

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