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薩摩藩とハゼノキ③ 農村部の実態と天保の財政改革

みなさんこんにちは!3回目となりました薩摩藩とハゼノキシリーズ。前回は禰寝清雄の農業政策により薩摩中に広がりはじめたハゼノキと製蝋。それはどのような政策であったのか。そして、その中心的な役割を果たした人物と、生産・製蝋の中心地となった桜島の動向を中心に書いてみました。そんな前回の記事はこちら!

多くの利益を藩にもたらしてきたハゼノキですが、実際に育てる側の実態はどのようなものだったのでしょうか?ハゼノキを植栽していた藩の中でも群を抜いて評判の悪かったといわれる薩摩藩。そして、その転換になりえたかもしれない調所広郷による天保の財政改革。今日はこれにについて書いていこうと思います。


■郷士も百姓もウンザリ?ハゼノキ政策の実態

「百姓の難儀は一に公役、二にはぜの実」(『大根占町史』より抜粋)

「櫨実の収穫は9月~11月の10~20日もかかる。同時期に収穫する米は1日の遅れで鳥に荒らされ、唐芋は1日遅れで雨や雪で腐らされ、粟は霜と西風がつづけば大半が落ち、作人は1年の飯料を失ってしまう」(高山の郷士年寄伊東嘉太郎『感傷雑記』より要約)

「櫨・楮・梅等は御用産品であり、百姓にも理解が必要。しかし、百姓の栄労や地の広狭、農人の数も考慮して進めなければかえって国の損失となる。実際小作人は迷惑がっている」(久保平内左衛門『諸郷営労調』より要約)


百姓、郷士、藩士の立場でハゼノキに対して思うところが書かれています。『諸郷栄労調』に関しては、藩の正式な調査であり、それまで考慮されてこなかった、櫨の実の収穫量が落ちる老木の伐倒や、櫨が成長することでできる木陰の分の作物の減免など併せて提言されているが、特に変えられることはありませんでした。特に他の作物の減産は直接小作人の生活に直結することでもあり、これが後年伝わる悪評につながる大きな要因と考えられます。

薩摩藩の櫨管理体制(宝暦移行)

一方藩側の認識は、藩内諸郷共通の『問答手引書』によると、「櫨の実は代米で買い取りをしており、豊作時は勝手に売買もできる」とされ、決して農村部に不利益だけを生じさせているわけではない。という認識でした。しかし、櫨の実の御用商人しか扱うことができず、一手買いによる買いたたきが常態化されていました。実態として、藩政の中心と作人の認識は大きく乖離していたことが分かります。

付け加えると、薩摩藩は他藩に比べ士族の割合が高く、江戸時代を通じてそれを負担する農村部が常に疲弊していたことも事実でした。さらに、薩摩藩は監視統制が非常に厳しく、農村部の抵抗手段は離散か、逃走に限られていました(大きな騒動は、徳之島の犬田布騒動ぐらい)。
『諸郷栄労調』によると安永5年(1776年)~文化二年(1802年)までに百姓が6,000人減少していると記載されています。元々厳しい農村部の状況が、ハゼノキの栽培推奨により、さらにその負担が増していました。

1826年の薩摩藩の士族階層の人口割合(尾口義男『薩摩藩の人口』より)全国平均は7%弱

まとめると「ハゼノキ」に限った農村部の問題点は大きく3つありました。
1,櫨の実の収穫と他の作物の収穫時期が被る
2,耕作不利地ができても他の年貢の減免は考慮されなかった
3,櫨の実は専売制で生産者の利益にならなかった
これは調所広郷の抜本的なハゼノキ政策の改革以降も残ることになります。

■調所広郷の改革。発祥の地、他藩に学ぶ

調所広郷(ずしょ ひろさと):1776年~1849年
薩摩藩後期の家老。天保の財政改革を主導的に進め、その後の明治維新の礎となった人物。悲劇的な最後も含め薩摩藩最大の功労者の1人。

調所広郷

広郷の行ったハゼノキ政策の改革は、これまでの政策と全く異なったものとなりました。薩摩藩は自身がハゼノキ奨励の先駆者であったこともあったのか、他藩への苗や実の販売は行っていましたが、積極的に品種改良を行ったり、他藩から育成や製蝋方法を学ぶとこはありませんでした

この結果、ハゼノキの育成も製蝋方法も前時代的な方法がとられ続け、ただただ小作人を生産に追い立てることで、収量を上げようとしていました。このような実態もあり、他藩も生産体制に関しては積極的に薩摩藩から学ぼうとはしていませんでした。実際、肥後藩はハゼノキの導入にあたって薩摩藩から種を買い入ましたが、殖産産業として推奨していく段階になると、筑前・筑後に人を送り、学ばせています。

この古い慣例を打破しようとしたのが、広郷による改革でした。広郷は、桐野孫太郎に命じ、優良品種の導入から製蝋方法、蝋の品質の向上、大坂での取引にいたるまで多岐にわたりる改善指示を出しました。
調所広郷の殖産産業といえば、「黒糖」のイメージですが、ハゼノキに関しても同様に多くの改革に着手していました。結果、天保年間(1831~1845)通じて、生蝋は砂糖、米に続き利益を上げる産品となっています。

調所広郷によるハゼノキ政策の主な改善点

この改革は、財政的に立ちいかなくなっていた薩摩藩を大いに助けることになりました。実際、広郷は桜島の垂蝋所を何度も訪れ、その進捗に心を配っていたとされます。しかし、「黒糖」に代表される苛烈な取り締まりがこの改革で是正されることがありませんでした。結果的に、優良品種の導入や木蝋や白蝋の品質改善による生産性の向上が、直接小作人の収入や生活の向上にはつながらなかったのです

天保年間平均の薩摩藩の輸出品(山田龍雄『明治絶対主義の基礎課程』より)

結果、調所広郷の改革以降も農村部に強いられていたハゼノキの生産に対する状況は改善されず、むしろ「質の向上」によるさらなる負担を強いくことになります。

天保の財政改革時の主力製蝋所の位置

■誰のためにハゼノキは育てられたのか?

禰寝清雄から始まったハゼノキの殖産産業は、江戸時代を通じて薩摩藩の中心的な産業の1つとなりました。それは、『斉彬公史料』に「国産の最も心を用いるべきものは、第一砂糖、第二櫨蝋、第三樟脳」とあるように薩摩藩の晩年まで続いていきます。しかし、これらすべては「藩財政のためだけの政策」であり、『諸郷営労調』に書かれた、「百姓の理解」は最後まで得られることがありませんでした

廃藩置県後、島津家は金融や鉱山、林業を中心とた事業を継続していますが、ハゼノキの生産と製蝋に関しては民間にゆだねられることになりました。これにより、強制耕作というくびきを外された農村部で、ハゼノキの大量伐採が行われたと伝わります。その後、生産地を失い、製蝋事態が継続できなくることでハゼノキの産業自体が失われていくことになります。

農家の生業にもなれず、島津家の事業にもなれず、最後まで「誰のもの」にもなれなかったハゼノキ。初めから「役割」を期待された樹木であり、その役割が終わった時点で終息していくことは必然だっのかもしれません。
最もゆかりのある禰寝家も18代当主重張(しげひら)で直系が途絶え、江戸時代後期には小松姓へと変わりました。あるいは禰寝家が大隅半島に残っていれば、別の道をたどる未来もハゼノキにはあったかもしれません。

錦江町(旧大根占)にあるハゼノキの里山

鹿児島県内でも最後まで櫨の実の生産と製蝋が残り続け、私たちの拠点となる「ハゼノキの里山」がある大隅半島。昭和50年代に製蝋が終わり、櫨の実の収穫も20年ほど前に終わりました。この地でハゼノキの育成を行い、産業や文化を復活させるうえで、誰のために?何のために?もう一度鹿児島の地でハゼノキの植栽を再開させることにはどんな意味があるのか?常に考えながら進めていきたいと思っています。

さてここまで薩摩藩のハゼノキ政策を見てきましたが、現在の鹿児島県の様子はどうなっているのでしょうか?次回は「現在の鹿児島のハゼノキ」に関してお話しようと思います!が、、、来週は、ゴールデンウィーク間近ということで、休みの間に訪ねることができる、ハゼノキの観光名所をご紹介しようと思います!



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