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わからないものは、無理に理解しなくていい


わからないことがあったら、調べて、知って、なるほどねと理解する時代は終わった。

学校の勉強がその最たるものだが、
知らないことを教えてもらって、理解する、と
言うことを繰り返してきた。

確かに1本の鉛筆にもう1本誰かが鉛筆を横におけば、二本になるので、1足す1は2になることは「わかる」

でも、この評論家が言いたいことは何か、と問われた時、正解の答えを読んでも、「ふーん、そうなんだ」
と、理解しようとは思うが(テストの点数を上げるために)わかったとは思えない。
だって、私は何度読んでも評論家が伝えたいことは
「わからないから」

でも、学校や試験という仕組みの中では、
「理解すること」が求められるし、人はそのシステムに従う。
そして、みんな同じに「理解した」と言う状態にする。
そんなの錯覚なのに。
所詮は、一種のコントロールだ。

これを、個人レベルに当てはめてみる。
人が人を理解することは、システムが存在しないので、その必要はどこにもない。

ただ、相手に愛情がある場合は、相手を理解しようとする。
システムではなく、愛情がここに現れる。

でも、相手のことが好きだという感覚も、錯覚の場合がある。
なぜなら、人は自分が理解したいように理解して思い込んでいることがあるし、もう一つは、人は変わるからだ。
ある日突然に。

だから以前理解できる思っていた人が、理解できないと思うことはこれからさらに増えていくだろう。

変化には

お互いに変化した場合
相手が変化した場合
自分が変化した場合

の3種類がある。
どちらも変化してない場合は、変化はないので今まで通りだ。

さて、この個人の場合、理解しようと言う気持ちが、愛情からのスタートであっても、親子でも「やっぱり子供のことがよくわからない」
と言う、親の本音を聞くことがある。
幸い私は「わかる」ので、この手の悩みがないのだけど、これも一つの「運」いや、「縁」なのだと思えばいい。

親だから理解しないといけない、とか、
子供だから親の言うことは聞かなきゃいけないと
言うのは、お互いに苦しいだけだ。
わからないものはわからない、でいいと思う。
わからなくても、ただ愛することはできると思うから。
ペットのことを真に理解してなくても、愛情は注げるはずだ。
金魚なんて、考えてることが理解できてると言う人は、かなり少数のはずだから。
(子供と金魚を一緒にするな、と言われそうだが)

私も最近自分でも驚くくらい自分が変わったので、
以前の私を理解していた人は、多分理解不能だと思う。
理解不能なのに、理解していると思い込むのは、正直
やめてほしいなと思っている。
冷たいと思われるかもしれないが、結局お互いのためなのだ。

そんな無駄なことはせずに、一瞬で「わかる人」とだけ付き合った方がずっといい。
それはお互いにそうなので、「理解してますよアピール」はいらないな、と思った。
私は今、自分が自分であるために、必要ないものを
捨てている時期だと思っている。
(この後クローゼットの服と本を一気に捨てようと思っている)

そうして保った自分が、今の自分だとなぜか強く思っている。

これも「わかる」人には「わかって」、わからない人は、さっさと読むのをやめるか、「理解しようと努力する」のだろう。

ただ、これからは「感じたことが全て」なので、
「よくわからないけど、この有名な人が言ってるんだから理解しなきゃ」
という、義務感を感じただけになってしまう。

つまり、何一つ分かってはいないのに、分かったふりをしている。
分かったふりをした方が、賢く見えると思っているのかもしれないし、自分は賢いと思いたいのかもしれない。

私は、バカでいいので、わからないことをわかったふりはしないし、自分の感じたことを大事にする。

それが結局1番の時間節約だし、その時間を自分がやりたいことに使っていきたいのだと、つくづく思っている。

ここまで書いてきて思うのは、私はおそらくただの変人ですが、多分、元からで、それを隠すのをやめたんだな、と言うことです笑。




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