見出し画像

人に会いたくなかった理由


以前とは違う自分がいる。
3月30日に何かが壊れ、再生を始めている気がする。
何かとは、多分古い自分だ。

そして古い自分が壊れている途中で、色々と「症状」があった。
その一つが、「人に会いたくない」「人と関わりたくない」
だった。
本来人見知りなので、うなづける部分もあったが、ここまで人とかかわりたくないと思ったのは初めてだった。
でも、その心のままに行動した。

旅は一人旅。
友達とは、必要な時以外連絡は取らない。
会っても短時間で終わるようにする。
なかなか、嫌なやつだったと思うが、それも昨日から変化した。

なぜか?

自分に自信がなかったのだ。
正確に言えば、不安定な自分に自信がなく、不安定なまま人に会えば、人の影響をダイレクトに受けてしまうことを、本能的に恐れていたのだ。

自分の軸が定まるまでは、人に会うことは全てノイズで、必要がないものを自分の中に入れず、自分と向き合いたかったのだ、と今思う。

そして、おととい自分の再生が始まり、早速セミナーに申し込んだり、
人と会う約束をしようとしている。
もちろん自分が会いたい人だけと。

破壊までと、破壊直後の感覚を今なら書けるので書こうと思うが、
破壊まではひたすら自分の思う通りに、わがままもだらだらも、全部良いこととして受け入れ、やりたくないことは極力やらない日々を過ごした。

再生直後の今は、変化した部分と変化していない部分があるように感じる。
あり方、働き方、価値観がより「自由」にシフトし、自分のありたい姿は変化し、その変化は私を満足させてくれている。
だからこそ、今なら人に会っても大丈夫だし、新しいことにどんどん挑戦していこうと思っている。

人の人生の長さは誰にもわからない。
ただ長くても短くても、人それぞれに山もあれば、谷もある。
山に登りたくない時は休憩して、谷底に落ちて上がり方がわからない時は、そのまま谷底にいてもいい。
誰かがすっと引き上げてくれることもあるし、自力で上がろうという気持ちになることもある。

あるがまま。
なすがまま。

歌で言えば、
Let it be.
フランス語で言えば、
ケセラセラ(実はフランス語ではなかったが)
Que será, será
他の言葉は知らないけど、少しだけ齧ったことがあるスペイン語でなんというか調べてみた。

すると、
Que será, será
はそもそも映画のタイトルだが間違ったスペイン語で、フランス語では
"Que sera, sera"はフランス語で「Ce qui sera, sera」と言います。
とchat GPT は教えてくれた。

英語では、「What will be will beなるようになる)」
らしい。

「ケセラセラ」の語源・由来
なるようになる」は、スペイン語では「Lo que será, será」である。「Qué será?」で「どうなるだろうか」という疑問文になる。「Que será, será」は間違ったスペイン語で、一説によると16世紀イギリス貴族が「What will be will beなるようになる)」のつもりで作った不正確なイタリア語由来し、のちにスペイン語風の綴り書き換えられたと言われる日本「ケセラセラ」知られるようになったのは、1956年アルフレッド・ヒッチコック監督アメリカ映画知りすぎていた男」の主題歌Que será, será」を、同年ペギー葉山音羽たかし翻訳「ケ・セラ・セラ」として歌ったことからである。原曲の「Que será, será」では「Que será, será」の部分英訳されておらず、その直後にWhatever will be,will be」という歌詞が続く。「whatever will be,will be」は、翻訳すると「どうなるだろう、なるだろう」となる

実用日本語表現辞典より


こうして調べてみると、私が経験したことを大袈裟に書いたが、実は世界中の人生の先輩達が既に経験していることであることがわかる。
それでも、「知っている」のと「実際に経験し、実感する」のは、別物と言うくらい「濃度」がちがうので、経験と実感ができて良かった。
腑に落ちているからこそ、行動と決断も早くなるからだ。

こうして、ようやく谷底から登り始めた自分を感じているところだ。


サポートありがとうございます!いただいたサポートは、次の良い記事を書くために使わせていただきます!