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本質を見る



別に自分が本質を見ているという自慢ではないが、本質を見る人が減っているような気がしている。(本質を見るのは好きだ)

ニュースにしても、
人の話にしても、
人の行動にしても、
読んだり、聞いたり、見たりしたときに、よく言えば素直、悪く言えば騙される人が多いのではないか、と感じる。

もちろん、たとえ騙されていても気づかなければ、本人はそれでいいと思うが、本質が見えている人に、見えていない人がその価値観を押し付けてくると、ストレスになる。

これは、日本人が思ってても言わないと言う気質のせいなのか、余計なことを言うのは問題になるからやめておこうと思うのか、余計なお節介だと思うのか。
全て当てはまっているような気もする。

行間を読む

と言う言葉が昔はあったが、今は「読む人」が減っていることもあり、語られていないことを感じる力が落ちてしまったのかもしれない。
あまりにも、ストレートすぎて、あまりにも浅い気がする。
もちろん全ての人がそうだと言うことではないのだが。

ちょっと遠回りな言い方をしてきたが、なぜこのようなことを書いているのかいうと、私が自分の仕事を通じて見る若い人たちから感じたからだ。

客室乗務員になりたい人たちを、育てていくのが私の仕事だが、合格した人たちがその努力や苦労についてあまり語らず、「運が良かった」「たまたまです」と言っていると、それをそのまま素直に受け取る人が多いな、と感じたのだ。

人は自分の苦労を普通言わない。
ましてや自分の夢の実現のために努力したことは、苦しいとも思っていないだろう。
だから言わないだけなのだが、「語られていない部分を理解する力」がないので、「自分も簡単に合格できる」と思ってしまう人が増えているように感じたのだ。(そんなに簡単にできると思って、私のスクールに来られると結構困るのだ)

逆に「空気を読む」とか「忖度する」と言う言葉は、流行しているし、それができる人は増えているように思う。
ただ、私は「空気をあえて読まない」こともあるし、(みんな右へならえって言うのは、間違った方向に行くと思っている)「忖度」とは「上の立場の人に媚びる」ことだと思っているので、よほど必要がない限りやったことがない。(今は特に必要がなくなったので、やっていない)

空気を読んで、忖度ができるなら、行間を読むこともできそうなのだが、何が違うのだろうと考えてみた。

それは、「自分が不利な立場になるかもしれない」と言う、危機感がある時には、語られていない部分を理解する力が発揮され、安全地帯にいるときには相手の言うことをそのまま受け入れてしまう、という違いなのかもしれない。

真実はわからないが、「騙されているかもしれないよ」と、お節介なおばさんは言いたくなるが、もちろん言わない。
聞かれたら言うだろうが、だまされても自分の責任だし、知らないままで終われば問題はないのかもしれない。
でも、なんとなく気になる・・・

と言う、もやもやした気持ちを、このエッセイに書いてみた。

「見えないものを見えるようになる」ことや
「無意識のことを意識化して、言語化する」
などは、人間がAIに勝てる分野だと思っているし、これからの学校教育はこのようなスキルを磨いていくような内容にした方がいいのではないか、と感じている。

とは言っても、すぐに変わりそうもないので、私は私ができる範囲で、生徒さんたちに伝えていけたらと思う。

本質が見える人、大事だと思うなあ。


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