見出し画像

良いチームについて知れば知るほど、「自分のダメさ加減」を突きつけられる話。

昨今、僕がご一緒している取材のテーマは「良いチームとは」「成果が出るチームの方法論」「チームの関係性を良くするには」だったりする。

個人がエンゲージメント高く働くための要件は、「自己効力感」がありながら「主体性」を持って「自律的」に動けること。その「自律性」は「裁量を与えられて、その範囲で影響を受けずに、自身の規律に基づいて”行動”ができていること」が必要だったりする。

そして、「主体性」を育むためにはコミュニケーションが必要で、1on1だったりで話をするなかで「個人の目的」と「組織の目的」が一致できるのが望ましいもの。コミュニケーションにおいては、各人が好きなこと、楽しめることだったりについて「自己開示」ができて、それぞれ「傾聴」ができていることが理想だ。

とはいえ、人間は主体性がなくても自律性を発揮することは可能で、メンバー同士はなんとなく「会社組織なんだから売上利益立てないといけないよね」ということ”だけ”握っていれば、そのための行動はできる。

しかし、お互いのことをなんとなくしか知らなければ、些細なことで対立してしまうもの。「業務だから一緒にやっているけれど、プライベートで何か一緒に取り組むほど仲良くはない」というチームも多いはず。というか、そんなチームのほうがマジョリティだと思う。

それぞれに家庭や事情もあるだろうから、寝食をともにして同じ釜の飯を食ってお互いを理解する…までする必要があるか、と言われれば、必至ではない気もする。とはいえ、「各人がお互いを理解しようとしているチーム」は「成果が出る良いチーム」に近いと思う。

コミュニケーションを見直して。朝会で業務進捗確認に加えて、1人1分でいいから「昨日から今日の自分」について「自己開示」して、話題を広げたことで、お互いの心の距離が縮まり、タスク面でも大変そうなときは声を掛け合ったりフォローし合う事が増えて成果も出てきたという事例を聞いて「あ、これは再現性があるいい話を聞けた」と僕自身はホクホクしていたりもする。

「出来なかった自分」にどう向き合うべきか

でも、それは。翻って自分自身のことを考えると……。「自分のダメさ加減」というものを否応に突き付けられてしまうのだ。

これまで、いくつかの職場やチームに属したけれど。いずれも「全体で決まったことをやればいい」というマネジメントを受け「あぁ、ここには自分が望む”裁量”はない」と感じてしまい。かといって、上司や周囲のメンバーに対してコンフリクトを生んでまでそれを指摘するコミュニケーションを取る勇気もなく。「全体で決まったこと」と「自分の目的」を合わせる努力もせず、その場を離れて、自分自身が裁量を発揮できるところに身を移した。

自分自身の選択には後悔はないものの……。「あのとき、ここを頑張ってコミュニケーションしたらもっと変わった結果があったのかもしれない」や「何の気無しによかれと思って発した言葉は、自分が気持ちよく喋りたいだけのもので、周囲の誰かの主体性や裁量を奪うものだったのかもしれない」という自責の念がある。

過去は変えられないものだから。今気づいたのだから、前を向いてこれからの行動を変えていくしかない。そう頭では分かっているのだけれど。

「出来なかった自分」というものが立ちはだかっていて、この感情をどう整理して扱えばいいのか考えあぐねている。そんな自分が明らかになり、悶絶するのだ。