【INTJ】頭の悪さと他者評価と自己肯定感の話

INTJは自信家や傲慢と言われることが多い。確かに私もそうだ。自信あるし、傲慢になりがちだ。仕事はそこそこできていると思う。中の上くらいだ。自分で下した判断にも自信がある。失敗しても成功しても、自分の糧にできる自信がある。
だが、自分の頭がいいと思ったことはない。

私は若い頃、本当に何も考えずに生きてきた。ぼんやり生きてきたINTJだった。勉強をしなかった高卒の私が今まで生きてこれたのは、就職氷河期が終わっていたからだろう。ほんの数年の差で、私は幸運を掴んで能天気に生きてこれた。
好きなことに関してはINTJらしさは発揮していたと思うが、人生の目標も目的も何もなかった。好きなこと以外では、脳みそを使わない人生だったのだ。
もし過去に戻って自分に何かを言えるなら「脳みそって知ってる?便利だから一度使ってみなよ」と言いたい。

だが、そんな私は今まで「頭がいい」と言われたことがある。
褒めらるのはもちろん嬉しいのだが、頭が良かったら高卒底辺事務員はやっていないのではないかと思う。私の何が頭良さそうに見えるのか、私は本気でわからなかった。
おそらく自信家なところ、断定的なところ、相手の疑問に対して即座に答えを出すところ、知的好奇心が強いといったINTJの特徴によって頭が良さそうに見えるのだろう。INTJだからといって頭がいいとは限らないが、INTJは頭が良さそうに見えるタイプということだろう。

ならば、頭が悪く見えてしまうタイプもいるのではないか。
タイプによって、IQの高低やギフテッドの出現率に違いがあるそうだが、そういう話ではない。どのタイプが頭が悪そうに見えるか、という話でもない。
自分が思う「頭がいい」から一番離れた性格タイプを、頭が悪いと判断してしまうのではないか、と私は言いたいのだ。

気が利くも、優しいも、面白いも全てそうなのではないか。自分の思うそれらから外れた人を、そうではない人と断定しているだけなのだ。
「頭がいい」の定義が、世渡りのうまさだと思う人なら、INTJはおそらく頭の悪い人に入るだろう。
「優しい」の定義が、嘘をつかずに本気で叱ってくれることだと思う人なら、INTJはおそらく優しい人になるだろう。他人からの評価なんて、所詮そんなものなのだ。

定義が違えば、評価なんて大きく変わる。
誰かに何かの項目で評価Fをつけられたとしても、他の誰かは同じ項目にSをつけることだって十分にあるのだ。もちろん自分でSをつけたっていい。
他人の評価は事実ではなく、他人の解釈だ。ニーチェをパクってみた。

私は「他人や社会からどう見えるか」については多少は考える。いわゆる礼儀や礼節の部分では、パターンを覚えてそれなりに振る舞えば合格点をもらえるので、楽なものだ。
だが、「他人や社会からどう評価されるか」については全く気にしていない。どんな人間が評価されるかは、人によって、時代によって、国によって、地域によって大きく変わるからだ。
気にするだけ無駄なのだ。

他者に最低評価をつけられても、「あなたがそう思いたいなら、思わせておいてもよろしくってよ」と思って私は生きている。上から目線どころか神から目線だ。
自己肯定感が低い人は、自分の評価を他人に任せてしまっている。だから、他者評価が気になり、自分の良さではなく悪さに目が向いてしまう。

私の好きな銀河英雄伝説にこんなセリフが出てくる。
「私が誰に愛されたかは問題ではありません。 私が誰を愛したかということが重要なのですよ。」
このセリフは自己肯定感などの話ではないのだが、万事これだ。私が誰を何を愛したか、私がどう思うか、私がどうなりたいか、私がどこに行きたいか、私が何を目指したいかが重要なのですよ。

中島みゆきさんの宙船という曲に「お前の手で漕いで行け、お前のオールを任せるな」という歌詞がある。私は、全てにおいて自分発進だから、自分の手で漕ぐ以外何かあるのか?と思っていたが、自ら他人にオールを渡してしまう人がいると知って、ようやく歌詞の意味がわかった。
今日は中島みゆきさんの曲を聴いて過ごそう。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
私はこのまとまりのない長い文章を、内容盛りだくさんと解釈して生きていきます。
自分がどう思うかが重要なのですよ。

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